素晴らしい平凡
応接室への呼び出しを告げる放送を聞いた途端、即座に早退しようと考えた綱吉は、決して判断を間違ってはいない
はずだった。
ただ悲しいかな、世の中は正しいことのみで構成されているわけではない。
だが考えるだけは考えてみた。最後の抵抗という種類の、そうできたらいいなあというような、あくまで希望的観測で
だ。
呼び出しの相手がその程度で誤魔化されてくれる相手の場合により、その案は有効だとはいえたが。
少なくともこの場合の相手、雲雀にとっては有効ではない。有効であるはずがない。
というか、そんなことをしようものなら翌日以降が怖ろしいことになるのは分かりきっている。
もっとも、綱吉にとっての命日が今日になるのと明日になるのでは、多大な差ではあるような気もしてはいたが。
今日に限って彼の友人の山本は野球部の遠征で、極寺も風邪で欠席している。
相手は雲雀なのだからそのくらいは知っていての呼び出しだろう。
しこたま殴られて入院するような事態になることはあるとしても、さすがに殺されはしないよな、とこれも希望的観測で
思いながら、綱吉は内心涙を流した。
なにをやったんだ、といわんばかりのクラスメイトの視線に引きつった笑みを返す。
とりあえずなにもやっていないはずだった。だがそんなことは問題ではないのだろう。
ついてない。まあ、それ自体は今に始まった話でもなかったが。
「いい忘れたけど。逃げたら咬み殺すから」
・・・・とりあえず逃げられるとは思っていなかった。少なくとも今を逃げられてもそれ以降を逃げ切れるとは思えないか
らだ。
そんな物騒な校内放送に追い討ちをかけられるまでもなく、彼のめぐりの悪い頭脳でもそれくらいのことはわかりきっ
ていた。
応接室にて、なんつーかもうあっさり人生の最終局面だ、と思った綱吉の判断はやはり間違ってはいないはずだっ
た。
綱吉がノックの後失礼しますというお決まりの挨拶を終え、なんですか、と用件を優先させて問いかけた結果だ。
雲雀は机についてはいなかった。ソファーに座っている。そして向かいのソファーを視線で示すようにした。
座れということらしい。つまり入り口付近での立ち話程度では帰してくれるつもりはないらしい。
かといって、綱吉がそこまで移動するのを待つわけでもなく、雲雀は口を開いた。
「ゲームをしよう。ルールはこの前と同じ。覚えてるよね」
断定口調で確認されても、すっかり忘れていた綱吉は首を傾げるだけだ。
雲雀はそれを気にした様子もなく、口に手を当てて一つあくびをする。
「僕が安眠できる場所は少ないんだ」
その言葉にぴく、と綱吉の頬が引きつる。
一度強制的に付き合わされたゲームを、今度こそ思い出したからだ。
ってしょっちゅう応接室で昼寝してる人間の言うことかよ?!なにもオレの前で寝なくても!!
そんな綱吉の内心の叫びを知ってか知らずか、雲雀は念を押すように言った。
「君が想像するよりはるかにね」
要するに、以前病院で一方的に参加させられたゲームの続きをご所望らしい。
イヤがらせかよ!!
なんにしろ雲雀は自分勝手な理屈を並べ立てたあげく、言葉には出せずとも全身全霊内心でツッコむ綱吉を無視し
て、すっかり眠る体勢に入ったようだった。
まあ、この人が自分勝手でなかったことってないしな。
綱吉がどこか達観の域に達してしまっているのは、もはや日常だ。
綱吉の身の回りには、最近特にどうしようにもどうにもならないことが多すぎた。そうすると自然、折り合いをつけるの
もうまくなる。この場合に限らず、折り合いというよりは諦めることが。
入り口に立ち尽くしているのもバカらしいので、というか、このままの状態で雲雀に眠りに入られたら綱吉としては歩く
ことも座ることもできなくなるので、綱吉はぎくしゃくしながらも入室し、雲雀の視線を伺いながらも彼の寝そべる、そ の向かいのソファーに腰掛ける。
綱吉がソファーに腰を落ちつけたのを見計らって雲雀は口を開いた。
本当に眠いのかいつもは鋭い瞳が、やや眠たげに細められている様は、綱吉に家にいるチビたちを連想させた。
少し可愛いかもしれない。存在そのものはとても可愛いとはいえなくても。
「分かってると思うけど。僕が起きるまで物音一つ立てないように」
罰則に対しては、分かりきっているとみなしてか、特別言及してこなかったが、不公平なゲームはとりあえず幕が開
けたらしかった。
「・・・・」
少し沈黙して、ほんの3秒ほど前の自分の思考を綱吉は全力で否定する。
やっぱり断じて可愛くない、いやそもそもこの人に対して可愛いなんて恐れ多いけど、そういうことじゃなくて、やっぱ
りこの人怖ろしいから!
また絶対ボコる気だよ、この人。何のウサ晴らしの呼ばれたの?!オレー!
心で叫んでみても現実に叫べるはずもない。
雲雀が大きくあくびをして目を閉じてしまった今となっては、カチーンと凍りついたまま、できるだけお早いお目覚めを
願うだけだ。
雲雀が、もし寝起きに機嫌の悪いタイプだったら、それでも殴られるかもしれなかったが。
とりあえず、身の安全を少しでも確保するためにはおとなしくしておくしかない。
ここは学校で、応接室だ。チビたちが来る心配はあまりないといっていい。以前の病院のような痛い記憶は、自分さ
えおとなしくしていればたぶん繰り返されないはずだ。
カチコチと室内に響く秒針の音を聞きながら、呼吸さえひそめて綱吉は音を立てないように凍り付いていた。
十五分ほど経過した。
雲雀は今のところ平和に爆睡中だ。
することがない綱吉はそろそろ退屈を覚え始める。
きょろきょろと辺りを見回した。よく整理された部屋はどこか雲雀そのものを連想させた。
机の上には没収物であろう生徒手帳数冊と、積み重ねられた書類と、なぜか体温計。
体温計?!
さらりと一瞬流しはしたが、この部屋にあるにしてはあまりにも違和感のあるものに、綱吉は瞠目する。
もちろん、この部屋にあるというからには雲雀の私物か、雲雀が持ち込んだものか、風紀委員の備品なのだろうが。
ものがものだけに、風紀委員の備品である可能性は限りなく低いように思うし、没収物とも考えがたい。
雲雀の私物、という可能性も捨てきれないが、例えばそうだとしても今そこに出してある理由というのは考えてみれ
ばひとつしかないような気がしていた。
ゴミ箱の入り口に目が行った。そこには想像通りのものが捨ててある。風邪薬の箱だ。
それを視線だけで確認してから、ゆっくりと綱吉は雲雀に視線を移した。
いつもは怖くてなかなか正面から見ることなどできないが、というか特別見たいとも思わないが、存外綺麗で、整った
顔をしていると思う。
暴力的なあの性格さえなければ、いや、それがあってさえ、女子にもてるのではないかと思うほどにはだ。
ただ今問題にしているのはそこではない。
触れられもしない、というか動けもしない状態で雲雀の体温を測れるものではなかったが、少し頬が赤みを帯びてい
るように見える。
よく見れば汗が浮いているし、やや安眠というには苦しそうな顔をして眠っている。
本当は少し冷やすといいんだろうけど。この人がおとなしく保健室に行くとは思えないし、第一保険医のシャマルが
男を見るとも思えないから行くだけ無駄な気もするし、と綱吉は思う。
ひえぴたをもらってくるとか、タオルを濡らしてくるとか、それくらいなら綱吉にもできるが、下手に動いて物音など立て
ようものなら、病人であるはずの雲雀にボコボコにされることは容易に予想できる。というか、以前一度痛い授業料を 払って学習済みだ。
結局、風薬は飲んだらしいし、眠っているのだし、それならこのまま様子を見てればいいんじゃないのかと綱吉は結
論付けた。
起きたころ熱が下がっているようなら、雲雀のプライドを傷つけないように、穏便にお帰り願えばいい。
とりあえず綱吉に与えられた課題が、いかに音を立てずに存在し続けるか、ということから変化したということはない
のだが、自分がわざわざ雲雀の昼寝に呼び出された理由が分かってきて、少し安心したような気分になって綱吉は 緩く溜息をついた。
雲雀は眠っている。風邪薬の効果もあってか、とりあえずはため息くらいでは起きないらしい。
雲雀の上気した顔は、あの鋭い瞳が閉じられているという要素も加わってか、常にない幼さを醸し出している。
その顔を少し見つめて、綱吉は口元に笑みが浮かぶのを押えられなかった。
雲雀がおきてさえいれば、気持ち悪いと殴られそうだと思いながらも収まりそうにはない。
可愛いと、やはり思ってしまったからだ。
意外とこの人子供っぽいんじゃないかな。そんな発想が唐突に頭に閃いた。
風邪をこじらせたとかで入院してたときだって、と綱吉は考える。
退屈しのぎにゲームに付き合えといわれたような気がするが、それだって、物音を立てないほど自分に気を使わせた
いというか、注意していてほしいというか、ようするに一人放っておかれたくなかっただけなんじゃないかな。
弱っている自分を他者にみせたいと思うような人ではないはずなのに、そうせずにはいられないほど、寂しかった、と
か。
そう考えてそれからゆっくりと綱吉は首を捻った。思ったよりは可愛い人かもしれないとは思うが、いくらなんでも並盛
最強の雲雀がそこまで可愛いだろうかという疑問が頭を擡げたからだ。
でも、最強とか関係なく、病気のときは誰だって心細くなるものだし、いくら雲雀だからといってそのあたりは一応普
通の人間なのではないだろうか。と思い直す。
雲雀に面と向かって言うなら、決して認めはしないだろうが。というよりどの発想も言えばまず彼のお怒りを買うもの
には違いないだろうから、言った途端絶対かなりの高確率で殴られるし、そもそも口にすること自体怖ろしいけど、と 綱吉は自分の想像を締めくくった。
結局どんな発想も、雲雀に関わることなら、殴られている自分という、それだけのものにしか結論の想像は浮かばな
かったからだ。
ぱち、と音を立てて瞳が開かれた。実際に音が立ったわけではない、ただその部屋はそう錯覚するくらいの静けさを
キープしていたということだ。ほかならぬたった今目覚めたばかりの雲雀の命によって。
ぱちぱちと瞬きを数回繰り返してから、確認するように、雲雀は綱吉の名を呼んだ。
「綱吉」
雲雀が起きたことで、ようやく少なくとも音を立てずにいるという使命を果たし終えて、ぐったりとテーブルに脱力した
綱吉は少しばかり疲れた声で応じる。
「はい。なんですか」
「今何時?」
「もうすぐ下校時刻ですけど、ぎりぎりセーフです」
いいながら綱吉はこっそり胸をなでおろしていた。
実際、下校時刻を過ぎてしまったらどうしようかと気を揉んでいたのだ。
風紀委員長の雲雀が校則を破るなんて考えがたいが、この場合どうなるんだろうとか、最悪綱吉だけ罰則と称して
やはりボコられる運命か、とか。
「・・・・うん」
どこか素直に頷く雲雀は寝起きということもあってか、その眼光はやや柔らかい。いつものような威圧感は感じさせな
い、そのせいか綱吉はどこか気楽な調子で問いかけた。
「よく眠れました?」
「うん。今日は静かだったね」
そういった雲雀はさっきより幾分顔色がいい。それに少しだけ安心しながら、綱吉は立ち上がって身動きできなかっ
たせいで、すっかりしびれた足の具合を確かめるように動かした。
なにをしているのかとやや眉を寄せる雲雀に正直に告げる。
「足、めちゃくちゃしびれました」
「ふうん。君も寝れば良かったのに」
「いいええっ!滅相もない!」
安眠できるわけない。なにしろ相手は雲雀だ。起きたら即、僕の前で寝るなんていい度胸じゃない、とか理不尽なこ
とでボコられそうな気がする。
何となくいつもよりおとなしい雲雀に油断していたが、その危険性を思い出した綱吉は、とにかく用がすんだら退散、
とばかりに出口に向かう。
「じゃ、オレはこれで」
「綱吉。今日のゲームは君の勝ちだね」
「そ、そおですね」
起き上がりながら言われた雲雀の言葉に、綱吉は顔を引きつらせる。
すっかり忘れてたけどこれってゲームだったんだ!成り行きだけど、勝っちゃった、のか?!それはボコられないなら
オレとしては何でもいいんだけど、この人に勝つってそれなりにまずくないか?!後で仕返しと称してボコられたりと か・・・・!!
やはり雲雀がらみの発想では綱吉には殴られることしか想像できない。できそうにない。
顔を青褪めさせて足を止めたままの綱吉に雲雀はこともなく告げた。
綱吉の予想に大きく反する言葉だ。
「だからまたおいで」
え、と綱吉は目を見開く。
「君と群れたいわけじゃないのに、君の側は気持ちいいよ」
「そ、そうですか」
嬉しいような嬉しくないようなお言葉だ。そんな理由で頻繁に呼び出されたりしたら精神的に持たない。そのつど、ボ
コられる危険が伴うからだ。
なんにしろ雲雀は気楽に言葉を続けた。
「僕が居心地がいいと思う場所は少ないんだけど。僕が気に入る人間も、少ないんだよ」
「はあ?!」
気に入る?!誰かのこと気に入るなんてことがあるの?!この人!
自分以外はもの以下にしか思っていなさそうって言うか、どこの猛獣だこの人、って突込みを入れてやったほうがよ
ほど親切、くらいのレベルの人なのに?!
なにげに失礼なことを考えながらも、綱吉の思考はフリーズした。それはフリーズさせておいたほうがいいとの自己防
衛かもしれなかったが。雲雀は少し笑ったようだ。
「君が鈍くて助かるよ」
いつの間にかソファーから立ち上がっていた雲雀は時計を確認し、それから手を伸ばした。フリーズしたままの綱吉
の髪を一度だけ撫で付ける。
「?!」
びくりと反応して・・・・殴られると思ったからだが・・・・、あとずさった綱吉を、笑みを消した雲雀の瞳が捕らえた。
「さて。間抜け面曝してないでさっさと校舎を出ないと取り締まるよ」
「なんか理不尽だ!!」
すっかり気分のスイッチを切り替えてしまったらしい雲雀に突っ込みを入れつつも、同じく時計を確認した綱吉は、慌
てて失礼しますと叫ぶように言い捨てると応接室を飛び出した。
最終下校時刻まで、あと5分。
雲雀はこの後、校門前で違反者を取り締まるのだろう。
少なくともそこでまでは出くわしたくないと、綱吉はしびれてうまく動いてくれない足を懸命に動かした。
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