色のない夢を見ている。
死体置き場ロマンス
見るともなく見ている、闇色の色彩は夢であって夢ではないものだ。
おかれている現状で、おそらくは瞳を開くことができたのなら目に入るであろう光景となんら大差はない。
封印が施され身動き一つままならない状態の今で、実際に目を開いて確かめることができるわけでもなかったが、そ
うであろうと骸には分かっていた。
呼吸さえ苦痛に感じる色のない夢の残滓は、重く絡みつき、骸を意識の根底からもそこに縛りつけようとする。
時折意志を感じる映像が見えるのは、外界からのコンタクトがあったとき、そしてそれに応える力と意思が骸に残って
いたときだけだ。
だがそれは骸自身が外部からの声に応えようと意識していたわけではなかったというのに、するりと無意識の中に滑
り込んできた。
だから、骸は夢を見ているのだと、ふいに気づいた。
実際に目にしてから、ああそうなのだと気づくような具合でだ。
いつもの色のない夢ではなく、クロームを通して入り込んでくる現実の断片でもなく、呼びかけでも問いかけでもな
い。
ただ一面の大空が見えた。
それだけで誰かの意志を感じる気がする。
空は沢田綱吉を象徴するものだからと、そんな発想をかき消すように、大空は単純に自由を象徴するものだからそれ
に焦がれただけなのだと、骸は思い直した。
この思考を覗く相手がいるわけでもなければ、それが誰に対する言い訳になるわけでもない。
認めがたい現実に蓋をするための、自分に対しての言い訳だ。
この魂は誰にも捕らわれたりするものではないのだと。
骸はゆっくりと閉ざされていた瞳を開いた。
現実でではない、この夢のなかでだ。
夢の中でなら、意識さえしていれば自由に振舞うことくらいはできる。あくまで形だけのものに過ぎないが。
久しぶりに目にするように思う空の眩しさに目を細める。単純になにかの力を使うのではなく、目を目として使うのも
悪くはない。
そう思ったときだ。
いつの間に現れたのか、見つめる一対の瞳に気づいた。
反応が遅れたのは、それが殺意を感じさせない静かで穏やかなものだったからだ。
骸は振り向いた途端、佇んでいた沢田綱吉が、ぞくりと身を震わせた瞬間を見逃しはしなかったが。
綱吉にとって骸は、気味の悪い対象でしかないのだろう。
得体の知れない、目にはっきりと見えないものにこそ、人は恐怖するものだ。
目に見える単純暴力、そういう種類のものではない恐怖を綱吉は自分に感じているらしいと、骸はもうずいぶん前か
ら知っていた。
「お散歩ですか、ボンゴレ」
少し笑ってそう問いかけた。他に何を言えというのだと自問する。
無様な真似ができないというなら、強者でありつづけたいと望むなら、隠し通すしかない。隠せていないことなど分か
っていてもだ。
綱吉が無言で骸の手に触れる。
空を浮遊する自由な手足にではない。
錠につながれた水の中の冷たい手にだ。
綱吉にだけはそんな姿は隠しておきたいと思う骸の思いに反して、空の景色だけを残して骸は唐突に、夢での仮の
姿を保てなくなった。
綱吉が触れたそこから、全てが現実に戻っていく。
それなのに五感の全てが閉ざされた手のひらに、綱吉の意思の体温を感じるのだ。
閉ざされて封じられた忌まわしい瞳の上にも綱吉の体温。触れられたのだと思い当たる。
うそ寒くて、振りほどきたいほどには不快なそれが、腹立たしくも泣きたいくらいに気持ちがいいのは、だから、夢で、
それだから錯覚に過ぎない。
どうしても綱吉は骸が隠そうとするものを曝け出したいらしかった。
感づいてしまうのだろう。それが綱吉に限って悪意からでないことはわかるともなくわかっていたが、それは素手で裸
の心に触れようとする行為にも似て、居心地悪いことには変わりない。傷つけようとする意図が綱吉にないと分かっ ていることが、逆に嬲られることより性質が悪いように骸には感じられた。
傷つけないように触れられるよりは、いっそ傷をくれたほうがいい。そういう種類の事態はいくつでも存在する。
特に骸のような歪んだ存在にはなおさらだ。
ただ優しさをくれるくらいなら、いっそ殺されるか、綱吉を殺すかしたほうがこの心は救われる気がする。
それでも、もし綱吉を殺したとして、それが自分に今可能だったとして、その一瞬の快楽の末に、例えばほんの少し
でも寂しいと思う気持ちが浮かび上がるというのなら、それはつまらないことでしかないように骸には思えた。
綱吉を支配したとして同じことだ。
他ならぬ綱吉の意思の方向性を、見てみたいと思う瞬間が骸にはあるからだ。
綱吉なら、およそ骸には考えつきもしない方法で、予想外の方向に事態を進行させてしまうのには違いないから、そ
の行く末を、少なくとも飽きるまでは見ていたいとも思う。
飽きるまでの間くらいなら、気まぐれにより近くで見物するために、少しくらい力を貸してやるもの悪くはない。
生かさず殺さず楽しめる程度に。
その程度の興味だというのに。綱吉を前にすると、その全てが壊されていく気がする。綱吉が壊れていくさまを見て
いたいのに、いつも壊されていくのは自分だ。
綱吉が触れているそこから自壊していくような錯覚に、骸は手を振り解きたいような衝動に駆られた。
錠に繋がれた手は動かせない。例えば動かせたとして、もしかしたら自分は振りほどきはしないのかもしれない。
そんな思考に急かされて、骸は喘ぐように言葉を紡いだ。会話でもしていないと、このまま手や瞳に触れられ続けて
いるという現実に耐えられそうもない。
「なぜ、ここに来たんです?」
問いかけは簡単なものだ。
「お前が呼んでる気がしたから」
綱吉は淡々と答えた。声には、いつも真っ直ぐな意志だけが感じられる。
不快であって、不快ではない。
「僕は君など呼んでいません。そんなことはありえない」
「お前叫んだりしないけど、でもオレには確かに呼んでる声が聞こえたんだ」
「もしも君が、僕を救えるのだと勘違いしているのだとしたら、それは傲慢な思い上がりだと忠告しておきますよ」
ここから、という意味ではなく、もしも綱吉がこの心や存在を救い上げようとしているのだとしたら、その手を振り解い
て逃げるのだと骸は決めていた。
救われたくて、救われたくない。例えば綱吉が骸を救える唯一の人間だったとしても、それを自分から求められるほ
ど、骸は無邪気でも純粋でもない。
「僕がなにをしたか忘れたわけではないんでしょう」
全く、なんで自分がこんなことをわざわざ思い出させてやる必要があるのだと骸は思う。
それは纏わりついている駄犬や、あの家庭教師の仕事だろうにと舌打ちした。
考えてみれば、綱吉が骸を助け出してくれて、その上救ったのだと勘違いするようなことがあるならば、助けるだけ助
けてもらい、その後で裏切ってやればいいのだ。その代価を見せ付けるように。
そのほうがはるかに、綱吉にとって意味のある教訓になるように思える。
そう思いながらも骸がそれをする気が起きないのは、そうしたからといって、綱吉の本質が変わるわけではないとわ
かっているからかもしれなかったが。
裏切りを寂しいと思いこそすれ、綱吉は無償で無駄な優しさを降り注ごうとすることをやめはしないだろうし、骸を憎み
はしないのだろうから、どのみち骸の目的は果たされない気がする。
それでも別段、人好く説教してやる必要はないというのに。
骸はもう綱吉を裏切れなくなっている自分を、どうしようもないような気持ちで認めた。
気づかずに意識の底でこうも捕らわれている、あの自分とは違いすぎる幼く愚かな無垢な魂の持ち主に。
綱吉にも、口ではなんとでも言いながら骸が綱吉に決定的な裏切りをもたらすことはないだろうと、分かってしまって
いるのに違いなかった。
眉根を寄せて、少し考えるようにしていってくる。
「オレはお前のしたことを許せない。でも、お前の気持ちの優しい部分があることもちゃんとわかる。だからそれを信じ
たいんだ」
本心からの言葉しか綱吉は口にしない。それならば言葉は額面どおりのものなのだろう。
「相変わらず、君は甘い人ですね」
「きっと迎えに来るから」
「僕はマフィア風情に力を貸す気などありませんよ」
「うん、それでもいいんだ。オレがそうしたいから、そうするだけだし」
綱吉は少し笑っただけだ。
ひねくれきった骸には、優しさを優しさだと素直に感じ取れるような感性はとうに失われていたが、それを生ぬるい偽
善だと一笑に付すような鋭利な感情も、綱吉を前には頭を擡げてはこなかった。
綱吉との間に奇妙な信頼関係が築かれつつあるからだとは、以前の骸なら考えるだけでも反吐が出そうなものだっ
たが。
あきれ返るだけのため息くらいしか今の状況では出せそうもない。告げる。
「まったく。あなたはバカですか?ああバカなんですね。可哀想に」
意味のない雑音の羅列を。
そんなもので武装していてさえ、綱吉の直観力は全てを露にしてしまうものなのだろう。
綱吉のほうでも、骸にそれ以上の意味のない悪態をつかせる気はないようだった。
会話の終わりに手を伸ばしてくる。
全身が綱吉の体温に包まれるのを一瞬だけだが確かに感じた。それをうそ寒いと思う気持ちはもう存在しない。
気配が霧散して、大空の鮮やかな青だけが後には残った。それさえも次第にかき消され、色のない闇がゆっくりと満
ちてくる。
骸は色のある夢が去った空間を静かな気持ちで見つめていた。何一つも見逃すまいとするように、瞬きさえ呼吸さえ
密やかなものにして。
色のある夢の残滓は、骸を何一つ拘束しようとした意志を感じさせるものではなかった。
おそらくは綱吉自身がそういったことを好まないからだ。
それでも、冷たく強張ったこの心を絡め取る、しなやかで柔らかい羽根であるように骸には感じられた。
例えば、それはあたかも、綱吉の大空を羽ばたくためのものであるかのような。
重くはない。縛ろうとするわけでもない。それなのに強く綱吉だけを思わせるのだ。
鬱陶しくて不快で切り捨てたくてたまらないのに、おそらくは自分がそれを完全に切り捨てきれないであろう現実を、
多分この先数年は受け入れられないだろうと骸は確信した。
単純に幼稚で曲線的な気性のせいだ。こればかりはもう自分でもどうにもならない。
「せいぜいこの僕を手なずけてみるがいい。それができたら、僕はあなたに従ってもいい」
呟きは色のない空間でわずかな気泡を生んだだけだ。
骸は色のない夢に大空の残像を描き出しながら、ゆっくりと意識を眠らせていった。
|