「おいで」
苦笑するようにして言われた言葉に、オレは逆らう術を持たなかった。


完全な白の脆さ





後ろから腕が回った。
それはどこか他人事のような感覚で、腕から伝わる体温が、ひどく暖かいとぼんやり思う。
抱きしめられたのだと思って、振り向こうとして、それが錯覚であることはすぐに知れた。
自分の体が傾いていたからだ。
要するに、後ろに倒れ掛かったのだ、と悟ったのはその一瞬後だ。

受け止めてくれたのはヒバリさんだった。
部屋にはオレとヒバリさんしかいないのだから、当たり前といえば当たり前だ。

「君疲れてるだろう」

耳元でヒバリさんの呆れたような声がする。

そうと問われてしまえば、それは事実でしかなかった。頷く。
今更とぼけようとしてもそれは無理なことだろう。

少しの浮遊感のあと、着地させられた先は部屋に設置されたソファーの上だと、視覚よりは触覚で感じた。
目を開けているのも億劫で、意識せず視界を閉ざしていたせいだ。

手探りだけでソファーの感触を確かめながら、ヒバリさんの手が離れていくのを感じて、薄く瞳を開く。
隣に座ったヒバリさんはぽん、と自分の膝を軽く叩くようにして示した。

「おいで」

誘われるままにその腰に抱きつくようにして頭を乗せると、ヒバリさんはいつにない優しさでオレの頭を抱きこんでくれ
る。
オレの癖のある髪をふわふわと撫でる大きな手に目を細めて、オレは呟いた。

「少し、懐かしい感じです」

「そう?」

「はい。学校の応接室を思い出します」

「ああ。あの時は逆だったけどね」

懐かしい記憶が胸をよぎる。
それは後悔するものでもなく、ただ懐かしむだけのものであるというのに、どこか残像めいて、思い浮かべることだけ
ならいとも容易く、それだというのに、決して手を加えたり、手を触れたりすることはできない、そんな寂しさを孕んでい
るかに思えた。
それでも、それから目を逸らすことはできずに、凝視する。
どれも時々、やるせない仕事の合間にふと思い出す、懐かしくて平和で優しい記憶だ。

放課後の応接室で、眠る彼によく膝を貸したこと。
はじめは怖くてどうしようもなかったこと。
ヒバリさんは時々、狸寝入りだったこと。
はじめはもちろん恐怖から全く気づかなかったが、いつからかそれがわかるようになった。
あとは、ヒバリさんが出してくれた紅茶の匂い。

様々な記憶がはっきりと、まるで今このときのものであるかのように鮮明に浮かび上がる。
眠りに沈みかける頭で切り替わるスライドのように浮かぶ記憶の残像を愉しみながら、オレは小さく呟いた。

「・・・・あの頃の・・・・オレは、・・・・」

言った一瞬後は、意識は眠りに落ちる寸前だ。それに気づいたヒバリさんはオレの頬を軽く引っ張った。

「続けて」

オレはおぼつかない意識の端を捕まえるようにして保ちながらも、頬を引っ張るヒバリさんの手を握って止める。
その手をそのままヒバリさんが握ってくれたのが嬉しくて、ほわんと笑って告げた。
もう意識は半分以上眠りに溶けているから、だいぶ緩みきった笑顔かもしれなかったが。

「少し、・・・・多分、ちょっとだけ、ヒバリさんが怖かった・・・・んです」

「そうだろうと思っていたよ」

それは別段、ヒバリさんにとっても予想外のことではなかったのだろう。
ヒバリさんは頷いただけだ。

「だってヒバリさん、あの頃も今も、気に入らなかったらフルボッコにする、って姿勢・・・・を貫き通してますもん」

ヒバリさんはあの頃とほとんど変わらない。相変わらず、怖ろしいところは健在だし、子供じみたところも健在だ。
それでもヒバリさんにはヒバリさんなりの筋や線引きがきちんとあって、気に入らなくても破壊しないものと破壊するも
の、大切にするものとしないもの、そういうものの区別を以前よりきちんと弁えるようにはなったと思う。

ヒバリさんはオレの言葉に笑ったようだった。
眠りの海を浮き沈みし始めたオレに、あやす様な声で答えてくる。

「まあね。それが僕の本質だからね」

「それをむき出して生きることって、・・・・他の人には、そうできることじゃない・・・・んですよ」

オレは苦笑するようにして告げた。
誰もがヒバリさんのようにできるわけではない。

「ふうん?そんなもの?」

不思議そうにヒバリさんは首を傾げたようだ。
ヒバリさんに普通の、ましてオレみたいな小市民の思考が理解できるとは思えないからそのあたりは気にせずに、オ
レは頷いた。

「そうです。ヒバリさんには・・・・想像できないかもしれませんけど、普通、は・・・・そんなもんなんです」

声が眠気を引きずっている。
眠くて眠くて。
纏まらず散らばっていくだけの思考を何とか纏めるようにして、オレは呟いた。

「だから・・・・怖かったんですけ、ど。憧れでもあった、・・・んです」

「それっておよそイコールで繋がらない要素に思えるんだけど」

眠りに深く沈み込もうとした意識を引き上げるように、ヒバリさんの手がオレの頬を再び引っ張る。

「・・・・ん、オレの中では繋がるんです」

「綱吉理論では繋がるのかい?」

オレは小さく頷いた。

「・・・・だってヒバリさん、最強で・・・・かっこ、よかったですよ。でも群れるの、嫌いだから、近づかれるのは・・・・嫌だ
ろうし、ボコられるだろうしって思うと、嫌われたくない・・・・から近くにいけないし。嫌われるのも・・・・殴られるのも、
怖いんです」

意識が堕ちかけるたびに、頬をつつく指先に先を急かされて、途切れ途切れの言葉を唇に上らせていく。

「でも、あの頃ヒバリさんは、オレなんか眼中になかったって・・・・思うんですけど・・・・ね」

ダメダメのダメツナだし。オレは何一つこの人に注視してもらえるようなものを持っていたわけでもない。
それなのに、割と頻繁に応接室に呼ばれるようになったのはいつ頃からだろうかと考える。

「ふうん。君らしい理論」

どこか呆れたような声で言われた。

ヒバリさんは何も隠さずに直球の人だから、オレみたいな堂々巡りな考えは理解できないのだろう。
それでもオレにはそんな全てもどれも大切な思い出で、懐かしくて、だからこそ、少しだけ切ない。

「あの頃の、気持ち・・・・も、あの時見ていた景色も、全部全部・・・・、鮮明に思い出せるのに、こうして思い出してみ
るともう・・・・オレもヒバリさんも、誰も・・・・あの思い出の近くに、行くことはできないんだよな・・・・」

少しの寂しさと少しの切なさでオレはそんな呟きを漏らす。
降って来たのはやはり呆れたような声音だ。

「当たり前じゃない。君は戻りたいの」

少し、考える。それからオレはすぐに首を振った。
戻りたいのとは違う。戻れはしないだろうが、それを選べるのだとしても、やはり選びはしないだろう。

「あの頃も、楽しかったけど、楽しいのは・・・・あの時だけじゃなくて、・・・・今もだから、いいんです」

うとうとと。
浮き沈みする意識の狭間でようやくというように言葉を続ける。

「ヒバリさん、に・・・・怖がりながら憧れてたあの頃も、オレにとってはかけがえのない思い出ですけど・・・・、今みた
いに、ヒバリさんの近くに・・・・いられると思っても見なかったあの頃よりは、今のほう、がずっと・・・・楽しいですから」

意識はほとんど眠りに飲み込まれているから、目を開くことはできなかった。
かわりに握ったままのヒバリさんの指先に少しだけ力を込める。

あなたが好きなんです。

零されたのは呆れたようなけれど優しく感じる溜息が一つ。
頬をつついていた指先が、いつの間にか頬の輪郭を包むように撫でくれていた。

「1つだけ教えてあげるよ」

ヒバリさんの囁く声が耳を打つ。
それはようやく聞き取れるくらいの声音だったが、オレの意識を覚醒させるには十分すぎるものだった。

「あの頃の僕は、君を理解できないけど何か気になる子だと思っていたよ。気がつくといつも目で探してた」

オレは、予想もしていなかった告白に、眠気もすっ飛ばして、きょとんと目を見開いた。
それで思いつくのは1つしかない。

恐る恐るというように口に出してみる。

拗ねると出現するヒバリさんの破壊癖は、多少穏やかになったとはいえ健在だから、自然口調は伺うようなものにな
った。

「それって、あの頃も少しは好きでいてくれたってことですか?」

「教えるのは1つだけって言ったよ。二度は言わないし、分かりきったことも言わない」

ふい、と目をそらせたヒバリさんを少しだけ見つめて、オレは何度も噛み締めるように彼の言葉を胸中で繰り返す。

それって、やっぱりそういうことで、オレのこと好きってことだよね?!


ヒバリさんは何も言わない。頬を撫でる指先が優しい。

その指先に眠りを誘われるようにオレは再び目を閉じた。


いい夢が見られるだろうと予感していた。





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