夜は深い。風はない。だから音もない。深く広がるだけだ。
底が見えない。底が見えないのは僕の中に広がるものも同じだった。ひとつではない。ひとつではないから名前が見
つからない。その中で最も大きなひとつを掬い上げてみる。
今ここにある君の命が欲しかったんだと、僕は思う。認識する。自分の気持ちの正体はそういうものだったのかと、そ
れを思い知る。
甘さなど全くない物騒な言葉であるのに、それは僕の中でひどく甘い響きを持っていた。
僕はどっちでもいいから、ただ子供のように我武者羅に、手を伸ばして、触れた瞬間壊してしまうような後悔しかこの
胸に残らないのだとしても、君が欲しかった。
君のひとかけらでもこの手に残るなら、僕は手を伸ばしてしまいたかった。


いのちのたべかた





夜は深い。
春とはいえ、夜はしんしんと暗く寒く染み渡るように降り積もる。
雲雀は闇を裂くように颯爽と歩きながら、不思議な心地で空を見上げるようにした。月は上弦だ。細く、蒼く、静謐な。
いつもならとっくに見回りも粛清も終えて明日の風紀活動に備えているはずの雲雀が、こんな深夜に外出を決めた理
由はひとつだ。
この界隈に強い殺気を感じたからだ。
燃えるような、光るような、鮮烈な殺気だった。今まで感じたそれの中でもきわめてトップレベルのそれだ。
この町で風紀を乱すものは何人たりとも許さないというのは建前であんなに綺麗な殺気を放つ人間というものを見て
みたかったのだというのが理由のひとつで、それと戦いたいというのが最も大きな理由だ。
久しぶりに興奮する気持ちを抑えて雲雀は現場に急いだ。





少年が立っていた。
背はそれほど高いわけでもない。男、というには幼い、だから少年だと雲雀は認識した。自分よりも幼いか、あるいは
歳はそんなに変わらないのかもしれない。
その周囲にぽつりぽつりと倒れている人影がある。
死体ではいないようだった。そういう気配ではない。だが昏倒している。
雲雀はそれらにはたいして興味なく一瞥しただけで視線を上げると、ただ1人立っている少年に声をかけた。
「きみは何者?」
「お前はなんだ・・・・?」
問いかける声は重なった。
少年の瞳が雲雀を映し出す。
冷たく冴えた瞳だ、あたかも夜空にある月が姿を持って降りてきたのかと錯覚するほどには、闇に立つその姿は美し
いものに感じられた。
特徴のある顔というわけでもない、どこにでもいそうな少年の顔だ。だがそれでも奇異だ。
少年の持つ気配が容姿の凡庸さを裏切っている。燃えさかる炎の気配だ。なぜか雲雀は、目の前の少年にそんなイ
メージを抱いた。
触れたら容易く着火して炎上するしかないような、そんな熱量だと言うのに、暖かいようにも優しいようにも感じる。
灼熱に揺らぐ透明感の高い炎を思わせる。瞳はこれほどまでに冷えた色彩を湛えていてさえだ。
「こいつらの関係者か?」
質問が重なる。少年は倒れ伏す人影を指してそういった。
低くもない、高くもない少年の声は耳に心地よかった。
声に驚くほど熱がないことがかえって心に響く気がした。雲雀が聞き返す。
「関係者?なんのこと?」
「・・・・」
一瞬だけ少年の瞳の力が弱まる。変化はそれだけだった。
ふい、と少年は視線を空に向けた。
「関係者でないなら戦う理由はないな。オレは帰る」
「待ちなよ」
「ここはもう片付いた。待つ理由はない。時間がない。そろそろ限界だ・・・・」
「君にはなくても、僕にはあるんだ」
「?」
「君を咬み殺す」
この場の状況に対する説明とか、風紀を乱したとか、倒れた複数の人影が何者なのかとか。聞くべきことはいくつか
あったのかもしれない。が、強い相手を前にしたならそれを倒すことしか考えられない。
この相手は強い。この敵は面白い。
そんな考えが雲雀を満たす。唇が弧を描いて笑みの形に釣り上げられた。
「・・・・」
少年は無言だ。獲物を構える雲雀を少年は強い瞳で見据える。
雲雀が駆け出す。
雲雀の鋭い付きと切り返しを少年は体ごと後方に跳んでかわした。
そして意を決したように雲雀のほうに踏み込んだ。軌跡の内側、さらに腕の内側にまで接触するほどに接近する少年
に雲雀の顔色が変わる。
すれ違い様、雲雀のふくらはぎのあたりを踵で踏み抜く。転倒する雲雀の、心臓の位置を少年はためらいなく蹴りこ
んだ。からんからん、と乾いた音を立てて、雲雀の手を離れた武器が地に落ちる。
衝撃で肺から空気が吐き出される奇妙な音が聞こえたと思った一瞬後には、身動きもできずに雲雀は昏倒してい
た。
ぐったりと脱力下体を見下ろして、少年が静かに声を発する。
「意識はあるか?もし、息ができないようなら地面を叩いてくれ。人工呼吸くらいならできる。悪いな。武器を持った相
手には手加減しないことにしてるんだ」
少し待つ。答えはない。
少年は少しだけ屈んで雲雀に顔を近づけ呼吸を確認した。それから安堵ともつかない吐息を漏らして、そのまま立ち
去ろうと足を踏み出した。
が、ほんの数歩歩いたところで脱力して、ふらふらとその場に座り込む。
何度か頭を振って立ち上がろうとして、断念したらしい少年はそのままゆっくりと瞳を閉じた。





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