ぴよよ、と窓際でさえずる黄色い毛玉は、ヒバリが拾ってきた鳥だ。
放し飼いだというのにこの鳥は帰巣本能でもあるかのように、夕方になると綱吉の家の窓に戻ってくる。
綱吉は窓を開けて、家に鳥を入れてやった。
「そういえばヒバリさん、しばらく帰らないって、何かやらかしてんのかな」
ヒバリが宣言どおりに姿を見せなくなって、最初の数日間の綱吉の認識は、その程度のものだった。
たいてい、いつだって少なからず、なにかをやらかしている猫ではある。
おとなしくしていれば平穏に過ぎていくであろう日常においてでさえ、通り雨のように何も残さずに通り過ぎるという選
択肢など、ヒバリに限ってはないらしかった。
そして日常的に巻き起こすことといえば、人間である綱吉にさえできないような、とんでもないあれこれだ。
その内容は綱吉に想像はつかないし、想像したくもないというのが本音でもある。
関わらずにすむなら、それに越したことはない。
そんな中、最近はヒバリのみならず、自分の友人である2人も、ヒバリと種類は違えど、実はかなりのトラブルメーカ
ーであることに薄々感ずき始めた綱吉でもあった。
その事実に気づいたときは、何も起こさないということが当たり前で、自戒するまでもなく人生ボードにトラブルのピン
が刺さることのなかった今までの綱吉の平凡な一般市民的日常が、急速に失われつつあるのはこういうことだったの
かと、妙に納得したりもした。
周りが常に何かをやらかす人間ばかりだというのに、その中でまともな立ち位置を、諦めず投げ出さずにキープし続
けることの難しさといったらない。
ちなみに、やらかす、の意味合いは、なにか(失敗を)やっちゃう、という意味合いではもちろんない。
正しく省略せずに言うのならば、なにか(物騒なことを)やっちゃう、という意味合いだ。
はあ、と綱吉は溜息を吐き出した。
とりあえず、今現在ヒバリはいない。
「まあ、巻き込まれずにすむんなら、そりゃありがたいけどさ」
否応なしに巻き込まれ続けたここ最近に比べれば、とりあえずはどれほどやばいことであろうとも、見えない場所で
やってくれているというのはありがたいことには違いなかった。
綱吉にしてみれば、自分の命の危機を含んだとんでもない厄介ごとに巻き込まれるのでなければ、とりあえずは平
和で無問題だ。
それならば、ヒバリがどこでなにをやらかしていようとも、とりあえずはどうでもいい。
ヒバリさんに限って、ケンカに負けてくるということもないんだろうし。
最終的にはここに帰ってくるんだろうから。


・・・・最初の数日は、その程度の認識でしかなかった。


BLACK CAT LIFE





ヒバリが10日を過ぎても帰ってこない。
1週間、もっと長くなるかもしれないと、確かにヒバリは言ってはいたが。
だからそれはそれほど気にするべきことではないのかもしれなかった。
ただ、ずっと一緒に生活していたものが、一週間以上もいないとなんだか妙な気がする。
それが最も平穏、かつ自然な状態なのだとわかっていてもだ。
綱吉は意識せず、手に持った鉛筆の後ろをがじがじと噛む。
そしてゆるい溜息を、口から吐き出した。
苛立っているわけではないが、なにか正体不明のもやもやが頭の中を抜けていかない気がする。
すっきりしないのは、日常が平和すぎるからで、端的に言うならヒバリが帰ってこないからだ。
そんな自分の発想に、どんだけトラブル慣れしてんだオレ!!、と一瞬頭を抱える綱吉である。
ヒバリがいない今現在のほうが、こんなふうに友人を家に招くのも自由、トラブルを心配する必要もなければ、綱吉自
身が痛い目を見ることもない。余計な気遣いさえ無用だ。
そういう意味でなら、今の状況ははるかに平和には違いないし、それなら、ヒバリに帰ってきて欲しいわけではもちろ
んない、そのはずだ、と綱吉は考える。
そのはずだというのに、いなければいないで、気になった。
時折窓の外に視線をやる。あの黒猫の姿が確認できるわけではないとわかっていてもだ。
はふ、と綱吉の口からもう一つ、溜息が漏れる。
友人2人が、困ったように顔を見合わせた。
「・・・・なあ、ツナ」
「沢田さん」
どこか上の空で、さらに鉛筆の後ろをがじがじやる綱吉に、補習友達の山本と、その助っ人として綱吉の家を訪れて
いる獄寺が声をかける。
返事は返らない。
綱吉は窓の外を見つめたまま、2人の声など耳に入らなかったかのように、既に本日何度目か分からない溜息をつ
いている。
山本と獄寺は揃って眉を寄せ、再び顔を見合わせてから、綱吉に向けてもう一度声を張り上げた。
「おーい、ツーナ!!」
「沢田さーん?!」
何とはなしに、手でメガホンのようなものを作りながら呼びかけた2人の声は、今度は確実に綱吉に届いたようだっ
た。
「あ!!え、っと、何?2人とも」
今始めて声をかけられていたことに気づいたのだろう、驚きながらも即席の笑顔を作って、綱吉は問いかける。
ちなみに今3人は、綱吉と山本の補習の課題を、綱吉の家で片付けている最中だ。
山本がハハッ、と明るく笑って言いかけた。
「いや?なんかツナ、手が進んでねえみたいだったから、そろそろ休憩にでもしね?と思ってさ」
「ああ!!そうだね、ごめん、山本」
気を使わせてしまった、と居心地悪そうに、綱吉は苦笑する。
獄寺が山本に向かって毒づいた。
「休憩にでも、って、さっきはじめたばっかだろうが、野球バカ!!」
「ん?でもツナ疲れてるみたいだしな?」
山本はそんな獄寺をなだめるように笑い、獄寺も綱吉のことになると、至極丁寧な気遣いを向ける。
「そうなんですか?!沢田さん!!それなら、そうとおっしゃって頂ければ!!」
2人分の心配げな視線が綱吉に集まって、綱吉は慌てて、胸の前で両手を振ることで、そうではないのだという意思
を示す。
「いや、そうじゃないんだ!!大丈夫だから!!もう少しやってからにしよっか。じゃないと明日までに終わんないし
さ!!」
「はい!!沢田さんがそうおっしゃるなら!!」
にっか、と獄寺が、およそ綱吉にしか向けない、いい笑顔で返事をよこした。
「大丈夫か?無理しなくていいからな」
山本も心配げな眼差しのままそう言うと、ぽんぽんと綱吉の肩を叩く。
そこまではよかったのだが。
その山本に獄寺が青筋を立てた。
「テメ、沢田さんに気安く触るんじゃねえ!!」
「獄寺、お前、いつもイライラしてんのな。牛乳飲め、牛乳」
「んだと、」
いつものパターンだ!!
綱吉は内心絶叫しつつ止めに入る。
「ふ、2人とも勉強!!勉強しよう!!」
綱吉に関することにはそれなりに仲良く協力する2人ではあるが、冗談なのか本気なのか、少し目を離すとケンカに
なりそうな事態は頻繁だ。
仲がいいのか悪いのかよく分からない、と綱吉は思う。
山本はともかく、獄寺は綱吉以外の他人には、大抵は山本に対するものと変わらない態度ではあるが。
ふと、山本が部屋に視線をめぐらせた。
思いついたように告げてくる。
「そういやツナ、ヒバリ今日はいないんだな」
「ヤロー、校内でも最近見ねえな。もしかして沢田さん、ついにヤローを追い出すことに成功したんスか?!」
獄寺の言葉に綱吉は、まさか、とぶんぶんと大きく首を左右に振った。
そんなことできるわけがない。
ヒバリが出て行くとしたら、それは綱吉が追い出した時ではなく、自分の意志で出て行く気になったときだろう。
他人の指図など受けるはずもなく、他人の意見など聞き入れるはずもないのがヒバリだ。
「なわけないだろ?!あのヒバリさんだよ?!ちょっと留守にするって言ってたから、そのうち帰ってくるんじゃない?」
ついでのように、本心でもなく、もー帰ってこなくていいけどね、と付け加える。
「あのやろー、永遠に帰ってくんな!」
獄寺もそれに同意して大きく頷いて見せた。山本はわずかに眉をひそめる。
それからにっかり笑って、綱吉の肩を引き寄せた。耳元に言いかける。
「ふーん。でもツナ、ちょっと寂しいだろ?」
「ええ?!なんで?!せーせーしてるよ!!怖いし、あの人やりたい放題だしさ!!本当、もう帰ってこなくていいっ
て!!」
「ハハ、でもいつもいるのがいないとなーんか寂しい気とか、しね?」
「そんなんあるわけねえだろうが!!ね!!沢田さん!!」
「うん・・・・。そうだね」
綱吉は曖昧にうなずいた。同意とも、またはそうでもないようにも取れる、曖昧な相槌を打つ。
「そうか?オレには結構仲良くやってるように見えたけどなー」
「んなわけねえだろうが!!あんのバカ猫!!沢田さんの手を煩わせやがって!!」
友人2人のコメントを受けて、綱吉は少しだけ苦笑するようにした。
考えてみると自分は、それなりの仕打ちをされているのにも関わらず、それほどにはあの猫が嫌いではないことに、
今更のように気づいたからだ。
ヒバリはヒバリで、友人とは少しだけ違う。
ヒバリと最後に会話をしたあの日に、何故だか直感的にそう思った理由を、今なら綱吉は分かるような気がしてい
た。
いつもそこにあるものは、既に生活の一部で、家族の1人だ。
ヒバリは少なくとも綱吉にとっては、もうそういう立場になってしまっていた。
・・・・ヒバリにとってはどうだったのだろうか。
その答えを持つ猫は今はここにはいない。
もっともヒバリに、家族の1人だなどといったら、馴れ合うつもりはないよ、と殴られるだけかもしれなかったが。
困ったように苦笑を浮かべたまま、綱吉は思いつくままを言葉にしてみる。
「怖いんだけどさ、時々、たまーに、優しいこともあるんだよな、ヒバリさんって。実はもう10日帰ってきてなくってさ。
大きな怪我でもしてなけりゃいいんだけど・・・・」
言葉にすると、それはなおさら現実味を帯びて胸に迫るような気がして、綱吉は息苦しさを感じた。
そうではないという事実に安心したくてたまらなくなるのだ。それなのに、あの黒猫は帰ってくる気配さえ見せない。
毎日、引っ越してきたあの日のように、ドアを開けると何事もなかったように室内に鎮座して眠っていたりするんじゃな
いかと、期待しているというのに。
僅かに俯いた綱吉の肩を、山本が力づけるように軽く叩いた。
その隣で獄寺も神妙な顔をしている。
「んー、ヒバリに限ってそんなヘマやらかすとも思えねえけど、ツナ、心配ならこれから探しにでも行くか?」
「不本意っすけど、それが沢田さんの意思なら、オレも及ばずながらお手伝いさせていただきます!!」
綱吉は顔を上げて友人2人の顔を見渡す。
まかせ(てください)とけ!!、と笑う2人に綱吉は笑顔で礼を言った。
「ありがとう山本、獄寺くん。でも、きっと大丈夫だよ、ヒバリさんだし。それより課題、明日までだから、今日はそれや
ろうよ。ヒバリさんなら、明日あたりひょっこり帰ってくるかもしれないしさ!!」
自分はともかく、山本の課題まで白紙で提出させるわけにはいかないし、と綱吉は内心で思う。
山本は、そっか、と頷いてみせた。
「じゃーそうすっか!!」




ヒバリが出かけてから、もうじき2週間経つ。
ヒバリが綱吉の腕に残した傷はもう全て消えてしまった。
新しい傷が増えることはない。ヒバリがいないのだから当然だ。
それにさえ寂しさを感じるようになって、ひょっとしてオレ、変態なんじゃ、と綱吉は顔を引きつらせる。
変態でもなければ、Mの人でもねーのに、どこまで慣らされてんだよオレ、と思いながらも、首筋の、もうとっくに消え
てしまった咬み痕に指を這わせた。
爪を立てないように、それでも振り払われない力で、しがみついてきた猫の腕の力を今更のように思い出す。
くすぐったくて、暖かくて、少しだけ怖かった。
どうしてヒバリは、あの日に限ってあんなふうに触れてきたのだろう。
部屋から窓の外に視線をやる。ヒバリは変わらず帰ってくる気配さえない。
あれほど気に入っているかに見えた学校にも姿を見せていない。
山本も獄寺もことあるごとに探してくれているようだったが、ヒバリは依然、綱吉たちの前に姿を現しはしなかった。




別に2週間くらい、たいした不在でもない。
そう思いながらも悪い発想へ気持ちは傾いていくようだった。
人は姿の見える不安に慣れることはできても、姿の見えない不安に慣れることはできないものらしかった。
いうなればそれは自分の心の形であり大きさでもあるからだ。
食事の買い物に出たついでと、自分にさえ言い聞かせるようにしながら、綱吉は探すともなくヒバリの姿を探してい
た。
そんなところにいるはずもないとわかっていてもだ。
向こうの路地まで、もう一つ向こうの路地まで、もう一つ向こうまでいったら、怪我で動けないヒバリさんがいるかも知
れない。
歩き続け、ふと、気づいて見渡すと。
全く知らない場所にいることに気づいて、次の瞬間青褪める。
ヒバリを見つけるために猫視点で、つまりは下のほうしか見ていなかったため全く気づかなかったのだ。
辺りは薄暗くなり始めている。
早く引き返さなければ、さらに迷ってしまうだろう。
慌てて歩いてきたと思しき方角に引き返しながら、電柱に書かれた町名を確認する。
黒曜。
げ、と綱吉は内心悲鳴を上げる。
もしかしたら以前自分が絡まれたのはここら辺じゃなかったか、とさらに顔色を失くしながら、自然足は速くなった。
そのとき、視界に入り込んだ影があった。
突然目の前に現れたそれをかわすことができずに、綱吉は正面からその影にぶつかる。
「おやおや、大丈夫ですか?」
「いって!!す、すみませ、」
穏やかに声をかけられて、謝罪を口にしようとして、綱吉は背筋を這い上がる寒気に体を硬直させた。
よくわからない。でも、確かに嫌な予感がするのだ。
ぶつかった人物から反射的に距離をとり、薄闇の中に立つその人物を確認しようと目を凝らす。
よく見れば黒曜中学の制服を着た、背の高い、優しげな笑みを浮かべたその男にさらに悪寒は増していく。
男は笑みを濃くして、距離をとった綱吉に手を差し伸べてきた。
「おや?君は並盛の生徒ですか?どうしてこんなところにいるんです?」
差し出された手をさりげなく避けつつ、この人なんか危ない、と直感で危機を感じ取る綱吉である。
「あ、えと、道に!道に迷っちゃって!!」
愛想笑いを浮かべていいながら、綱吉はさらに1歩、後ずさる。
男はその分を埋めるように足を踏み出してきた。
男が近づいてきたことで、その表情ではっきりと見えた。さっきとは明らかに笑みの質が変わっているのに、綱吉は
体を震わせる。
声が、場違いなほど優しく、それでいて酷薄な響きを持って落とされた。
「ほう。そのわりにはさっきからきょろきょろして、何かを確認しているように見えたのですがね」
「いつから見てたのー?!っていうか、あんた何者?!」
叫んで、大きく後ずさる。男はゆっくりとした動作で近づいてくる。
視線を逸らさずに、警戒心をむき出しにして、距離をとろうと必死な綱吉を面白そうに眺めて、男は笑った。
「クフ、きみは小動物のようですね」
心底楽しそうに笑われても、綱吉にはそれどころではない。
人通りはない、自力で逃げるしかないと判断はできても、蛇に睨まれた蛙のように、足が前に出て行かない。
後ずさるだけではいずれ逃げ場がなくなるとわかっているのに。
とん、と道沿いの家を囲うブロック塀に背中が触れるのに、泣きそうな気分になる。
男はまたおかしそうに笑って、綱吉の顔を覗き込むようにした。
「僕は六道骸といいます。黒曜中で生徒会長をしています。わかりますか?この町は僕のテリトリーってことですよ」
うわ。ヒバリさんみたい!!ヒバリさんが並盛の秩序なら、この人が黒曜の秩序ってこと?!
瞬間的に閃いた発想に青褪める。
それならどうしたって、フルボッコにされる結末が既に決定事項であることが理解できたからだ。
その思考をなぞるように骸と名乗った男は続けた。顔がさらに近づく。
「つまり、君のような間抜けな人間は何をされても文句は言えない」
「ええ?!ち、ちょっと待って!!」
やっぱそうなるのかよ?!ていうか、ヒバリさんより性質悪くないか?!この人!!
わかってたけど!!そりゃボコられるんだろうなって!!
いじめられっ子の悲しい経験から、こういう空気はこれまでの人生で何度も経験済みで、ここまでくるとこの後どうなる
かはわかりすぎるほどにはわかってはいた綱吉ではあるが、何故だかこの骸と言う男を相手にすると、単純にそれだ
けではすまないような、得体の知れない恐怖があった。
トラブルは避けるんだよ、きみはとにかくドンくさいんだから。
あの日のヒバリの言葉が予言じみた響きを持って脳裏に甦る。
黒い毛並みと金色の瞳の輝きが、どこか人間じみた仕草をする黒猫の仏頂面が、なにかの奇跡のように、不意に鮮
明に思い出された。
それに力を借りるように、竦んでいた足が、震えていた体が、不意に軽くなる。
瞬間的に綱吉が思ったことはやはり逃げなくてはということで、その思いのまま走り出した。
人のいるところにでれば、うまくいって並盛まで抜けられれば、逃げられるかもしれない。
とにかく一瞬でも早く、逃げ切らなければいけない。
脅迫じみた命令を全身に伝えて綱吉は必死に手足を動かした。
気ばかりが急くが、どれほど焦ったところで走る速さが増すわけでもないうえに、綱吉はもともと足が速いわけでもな
い。
「待ちなさい」
当然、声は追ってくる。それを振り切るように角を曲がろうとして、その視界に、さっきと同じように割り込む人影があ
った。
勢いを殺せずにぶつかりそうになり、そのまま転倒する。
「うわあ」
情けない悲鳴を上げて転がりながら、後ろを振り返った。が、そこになぜか人影はない。
追いかけてきてはなかったのだろうかと思いながら、つぶかりそうになった人影にも視線をやる。
瞬間的に呼吸が止まったのを綱吉は自覚した。
「な、どうして・・・・?!」
目の前に立っていたのは、骸だった。
さっき後ろから追いかけてきていたはずの男だ。なぜそれが、前にいるのだろう。
「さあ。どうしてでしょうね?」
骸は心底楽しそうに笑っている。
おもちゃを見つけた子供の笑顔だ。無邪気とは程遠い、昏い色だけを写した。
その笑顔を見て、ぞく、と背筋が冷える。
綱吉は尻餅をついたまま、じり、と後ろにあとずさった。
少しでも距離が欲しい。追い詰められるだけとわかっていてもだ。
手が触れた後ろはもう壁際だ。背中に硬く冷たい感触が触れる。
骸が僅かに上体を屈ませて、綱吉に顔を近づけてきた。
笑っている。優しげな笑みだ。それがかえって怖ろしい。
怖ろしくて目を閉じることさえできない。
近づいて見つめた顔が、普通のレベルのそれよりもはるかに美しいことに、今更のように気づいていた。
こんな事態だというのに、胸にあるのは間違いなく恐怖だというのに、変なところで冷静なのは単純に現実逃避だ。
骸の不思議な色の瞳が街灯のわずかな光を弾いて煌くのが見える。
色は全く違うというのに、何故だかヒバリの、金色に煌く瞳が思い出された。
・・・・この人、オッドアイだ。色、すげーきれー。
そんな綱吉の思考を読んだように、骸の表情が訝しげに顰められる。
綱吉は静かに骸の瞳を見つめ返した。恐怖は去らない。だというのになぜか、さっきほどには怖い存在だとも思わな
くなっている。
目の前の男を、どこかヒバリに似ていると思ったせいもあるかもしれない。
よく似ているかといわれたら絶対にそうではないというのに、どこか何かしらが似通っているように綱吉には感じられ
た。
ふ、と骸の吐息が苦笑するようにその場に落とされて、綱吉は我に返る。
「なるほど」
骸は呟いて、目を細めた。
にたり、としたその笑みに、再び背筋を震わせる綱吉の頬に手を添える。
「僕は君が気に入りました」
なんで?!つうか、どういう経緯で?!
突然の展開についていけず、大きく目を見開く綱吉を無視して、骸はクフフと個性的な笑いを響かせた。
「黒曜中に転校してきなさい。そして、僕の生徒会の書記になりませんか?」
そうしてひとしきり笑いの発作がおさまった後、骸が口にした誘いは。
怪しい宗教の勧誘かと一瞬勘違いするほどには、とにかくとんでもないものだった。しかもセリフの前半は命令形だ。
「ええ?!なんで?!」
当然のように理解できない綱吉に、骸のほうは説明する気もないようで、覗き込んでいた綱吉から体を離すと、通りを
指差す。
「行きなさい。並盛はあちらです。今日のところは見逃してあげますから」
そう言われて、綱吉は一瞬ぽかんとした。骸を見つめ返す。
どこまで本気なのか、本当に見逃してくれるのか。その真意を伺うようにする。
骸の瞳は静かだった。さっきのように禍々しい笑みが浮かぶこともない。
綱吉は一つ息をついて、立ち上がった。
多少の警戒心を残しながらも、ありがとうございます、と呟いて、骸の気の変わらないうちにと指差された通りに向か
って歩き出す。
骸は礼を告げた綱吉に目を見開いて、それから笑ったようだった。思い出したように付け加えてくる。
「さっきの提案、考えておいてくださいね。返答は後日伺いにあがります」
ええー!!来ちゃうのー?!このおっかなさそうな人!!
驚いた綱吉が振り返ったそこで、骸は笑って手を振っていた。実にいい笑顔だ。
「・・・・」
この人、なんなんだろう。
綱吉は追い詰められたときとは別口の恐怖を感じて、ぶるりと体を震わせた。




通りをいくつか越えると並盛の見慣れた町並みが広がっていた。
綱吉は、はあ、と安堵の息を吐き出す。
家までの道のりをとぼとぼと歩きながら、ぼこられなかったのは運がよかったが、変な人に目をつけられたなと今更
のように思う。
返答を聞きに来るといっていた。考えておいてくださいね、とも。どこまで本気なのかは知らないが。
転校。黒曜中。今日出会ったあの骸と言う男。
一つ一つ思い出しながら、考えるも何も、と綱吉は思う。
少なくとも、綱吉には並盛を離れるつもりはなかった。
大体あの骸って人、なんか変だし。
それに学校もダメライフを送りながらも慣れてきたところだ。友達もできた。それに、ヒバリさんだっている。
浮かぶのは結局今日も帰ってこないらしい黒猫の姿だ。
ヒバリがいるから転校できない、と考えるわけではもちろんなかった。
例えば、それこそありえないが、もし綱吉が転校を選択するとすれば、ヒバリは並中生の家を宿主にする猫らしいか
ら、別れなくてはならないのかもしれなかったが。
少なくとも、ヒバリにこの町を離れる気はないだろう。
それはヒバリとの多くはない会話の中でも、綱吉には窺い知れていた。
ヒバリはこの町に、綱吉の通う学校に、ただならぬ執着を持っている。
だから、もし転校するのであればお別れだ。
そう考えるから、転校を考えられないわけではないというのに、それが最も大きい理由であるような気がする。
なぜか綱吉には、あの猫のいない生活など考えられないような気さえしていた。
トラブルからの開放。自由。
ヒバリと出会ったばかりの頃は望んでやまなかったそれが、今は望めなくなっている。
思うよりずっと、横暴で唯我独尊で理不尽で、でもほんの時々は気まぐれのように優しい、あの猫との生活が実は気
に入っていたのだと、今更のように綱吉は気づいていた。




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