殴られない。
いつものヒバリならそんなことはありえない。だからこれは夢なのだ。
ぼややん、とかすむ視界の中で綱吉はふと、そんなことを思った。
夢は優しいだけではなく、いつだって現実の辛いところを少しずつ入り混ぜてくる。
何一つとして思い通りになるわけでもないところは、結局のところ現実と何ら変わらないのかも知れなかった。
それでもほんの少しだけ、まるでそれが夢であることの証明のように、本人でさえ気づいていなかったような、ささや
かな願望が反映されている。
だからこれは夢のそういう部分なのだ。
目の前の黒猫を抱きしめてみる。
まだほとんど触れることを許してもらえていない、柔らかな毛並みを軽く撫でてみる。
予想されるような攻撃は何一つなかった。
おとなしく腕に収まった黒猫。困惑したような気配さえある。
可愛くて、優しいヒバリさん。
そんなもの、夢以外のなにものでもないだろう。
呆れたような顔を曝した黒猫は、痛いよ、と文句を言ったが、それでも攻撃してくる様子は見せなかった。
そんなものが現実であるはずもない。
全部全部、都合のいい夢だ。
ヒバリに会いたくて仕方がなかったから、こんなふうに夢にまで見るだけで、目が覚めたら現実には、やはりヒバリは
どこにもいないのかもしれない。
「今まで色んな宿主と暮らしてきたけど、君が一番変わっているよ」
呆れたような呟きは猫のものだろうか。
綱吉の意識はそのあたりで途切れている。


BLACK CAT LIFE





「どうしたんだ、ツナのヤツ」
ディーノが、ヒバリをぎゅっと抱きしめたまま、かくんと動かなくなった綱吉の顔を覗き込もうと体を屈める。
綱吉が意識を失ったことで、抱きしめる腕の力は緩んでいたが、そこから抜け出す気にはならずに、ヒバリは多少窮
屈な姿勢から首を捻ってディーノを見上げた。
「寝てるよ、この子。熱がある。さっさと何とかしなよ」
綱吉の呼吸が、浅くて熱い。
それはヒバリの頬にかかって、そよそよとひげを揺らした。
「なに?おい、ツナ?!」
力を失った子供の体をディーノが抱え上げて額に手を押し当て熱を確認する。
ひらりとディーノの肩から飛び降りたリボーンが、綱吉の腕から開放されて地面に降り立った黒猫に言いかけた。
「気になって様子を見にきてよかったな。ツナのヤツ、ずいぶんお前を心配してたみてぇだぞ」
「・・・・ふうん」
興味なさげに金の瞳がちろりと動いて、ディーノに抱えられた綱吉を見る。
そのディーノはといえば、確認した熱の高さの慌てつつも、綱吉のポケットを探り家の鍵を探しているらしかった。
「オウチガイチバン、オウチガイチバン、ツナヨシ、カギ、ガッコウニワスレタ」
どうでもいいことばかり覚える黄色い小鳥が、羽ばたきながらヒバリの頭上に着地する。
その小鳥の言葉の意味を吟味して、ヒバリとリボーンはほぼ同時に呟いた。
「ほんっと、バカだよねこの子」
「ダメツナが」





ひやり、と冷たい手が額に触れる。
人の手の感触だ。
それが誰のものだろうかということに考えは向かわなかった。
ただその冷たさが気持いいと思う。
額を覆うように重ねられて、ひんやりとそこを冷やしていく。
その心地よさに誘われるように、意識はゆっくりと浮上した。
目を開く。わずかに霞んだ視界は、はっきりと像を結ばない。
何度か瞬きをすると少しだけましになった。
視界の上のほうに黒いものが見えている。
それがそこそこの重量をもっていることを知覚したのはその直後だ。
額に横たわる黒いもの。
それをひんやり冷たくと感じるのは、綱吉の体が熱をもっているからで、その黒い物体は確かに体温を持っていた。
はしはしと、再び瞬きを繰り返すと、その気配に、黒い物体が少しだけ動いた。
見慣れた尻尾が目の前で揺らめいている。
もしかして、ヒ、ヒバリさん?!
内心絶叫しながらも、唇から漏れたのは熱を持った浅い吐息だけだった。
ゆらゆらと揺れる尻尾は間違いなくヒバリのものだ。
となれば、今視界の上を占めているものは間違いなく猫の腹で、ヒバリの体なのだろう。
人の手だと目覚める瞬間まで思っていたものは猫の体で、額を覆うように重ねられていた手の感触が錯覚であった
のだと知る。
くるりと、振り返るように猫の首が巡らされて、煌く金色の瞳が綱吉を捕らえた。
猫は額から退いて、綱吉の顔を覗き込むようにするとその頬をぺろりと舐めた。
本物の猫のような仕草だ。瞳が重なり合う。
ヒバリは何も言わない。
猫ではないと言い張る猫。
凶暴で獰猛で、なのに時々優しい黒い猫のヒバリさん。
心配で、会いたくて、家族のように思えてしまった猫だ。
「・・・・ヒバリさん」
熱い呼気を伴う声は、ひどく掠れていた。
眠りに落ちる前にヒバリを見た気がしていた。それは夢だと思っていた。
何一つ現実味がなかったからだ。おとなしくて優しいヒバリさん。そんなヒバリは綱吉の中には存在しない。
それでもヒバリは目の前にいる。
だったらあれは、信じがたいことに夢ではなかったんだと、手を伸ばす。
いつものように触れさせてはくれないだろうかと、半ば覚悟しながら伸ばした指先は、しかし拒否されることなく黒い
毛並みにたどり着いた。
ちら、と視線だけでそれを認めた黒猫は、それを振り払おうとはしてこなかった。
あたかも普通の猫であるかのように、目を細めて受け入れる。
恐る恐るというように、黒い毛並みを撫で付けた指先の主は、その一瞬後嬉しそうに幸せそうにふにゃんと笑って、そ
れから言った。
「おかえりさない」
耳の後ろの柔らかい毛並みを指先はすべる。さして大きくもない、子供の手だ。女のようにしなやかなわけでもなく、
かといって成人男性のもののように筋張っているわけでもない。
やわく頼りない、それでも優しい手だった。
撫でる手は好きにさせておく。
全く珍しいことだが、ヒバリにはどうしても、その優しい指先を振り払う理由が思い浮かばなかった。
撫でさせてやっている今の現状は、他人が触れているというのに、苦痛でもなく不快感もない。強いて言うならば、ひ
どく心地いものだった。
普段であれば、何人たりとも、他者が自分に気安く触れるなど許しがたいというのにだ。
今のところその例外は唯一、リボーンだけだ。
赤ん坊になら、撫でさせてやってもいい。でもそれだけだ。だから今のところリボーンがただ1人の例外だった。
ヒバリは今までの宿主の誰にもこんなふうに触れることを許さなかった。
だというのに。
触れるのが綱吉であるというだけで、その指先はヒバリの神経を刺激しない。譲歩する理由など何もないというのに
許容することができる。
だからそういう意味で、目の前で締まりのない笑顔を浮かべている綱吉は、ヒバリにとって不思議な人間だった。
その人間がヒバリに、おかえり、という。
「・・・・、ただいま」
そういわれてしまえば、そう答えるしかないような気分になって、ヒバリは綱吉にそう返した。
他に言うべきことはいくつもあった。それらはもやもやと、ヒバリの中に渦巻いている。
君は自分の面倒一つ見れないの。とか。僕の心配なんて10年は早いよ。とか。赤ん坊たちが様子を見に来てくれな
かったらどうなってたと思うの。とか。
頭の中にはどうしようもないほどに溢れかえっているというのに、熱に上気した顔でほわほわと嬉しそうに笑われてし
まったら、とりあえずそう答えるしかない。
「どこに行ってたんですかー!!オレ、すっごく心配して、」
言いながらも、綱吉は上機嫌であるようだった。
いつも以上にテンションが高い。撫でさせてやったせいもあるかもしれない。あるいは、もっと単純に熱のせいかも。
笑いながらも、ずるん、と鼻水まで出てきた綱吉の顔に呆れ果てて、ヒバリは器用に爪先でティッシュ摘み取るとそ
のまま差し出す。
「綱吉、鼻出てる」
「あ、すいません。じゃなくって!!」
言いながらも、ずびー、と勢いよく鼻をかむ綱吉にヒバリは溜息とともに呟いた。
「寝起なのにテンション高いね、君」
「ヒバリさんいつも寝起きは最悪ですもんねー、ってそうじゃないんです、オレはすっごく心配したんです」
「余計なお世話」
ずいっ、と顔を近づけられて、口をへの字に結ぶと、素っ気無くヒバリは返す。
顔を背けると、その隙を狙うようにぎゅむと抱きしめられて、ぎゅうぎゅうと頬擦りまでされた。
「ちょ、君、なんなのさ!!」
回された腕に爪を立てようとして、実行前に逡巡した。
攻撃しようとして躊躇う。それは初めての経験だ。今まででは唯一例外だといえるリボーンにでさえ、攻撃すると決め
たものをためらったことは一度もなかったヒバリである。けれど。
自分を包む腕。少し熱いのは熱のせいだ。綱吉のにおいがする。
理由を挙げるとするならば、だから、それはひどくくだらないものにしかなりそうもなかった。
綱吉の匂いが、体温が、その腕が。たまらなく心地いいからだとは、気づかない振りをする。
綱吉のほうで、ヒバリを離す気はないようだった。例えば攻撃していたとしても簡単には離してくれそうにはないほど
の力で縋り付いてきている。
甘えているのだろう、風邪のせいかもしれない。
風邪さえ治れば綱吉は、我に帰って自分の所業に青褪めるだけのことなのかも知れない。
それならこれは仕方がないのだと、抗わない理由を胸の内で納得させて、ヒバリは目の前にある綱吉の肩に押し付
けられるままに顔を埋めた。
溜息だけでせめてもの抵抗を示すようにする。
「ですよねですよね。ヒバリさんですもん、そうですよね。でもヒバリさんが帰ってこなかったらって思うと、オレすごく不
安だったんです」
すんすん、と綱吉は鼻を鳴らして言う。
それは単純に風邪で鼻水が止まらないからだ。
だというのに、小さな子供が泣いているような鼻音にも思えて、ヒバリは小さく頷いただけだった。
「・・・・そう」
それで探し回って風邪まで引いたの、馬鹿な子、と言葉にしない声は胸のうちだけにとどめておく。
僕より君のほうが、いつだってドジで抜けていて、ダメダメなくせに。
そもそも君に僕を探すような義理があるわけでもないのに。
帰ってこなくても、綱吉からしたらその方が都合がいいのではないだろうか。
いつだってやりたいことだけを勝手にやってきた。綱吉の意志など聞いたことはないし、気まぐれに構ってやることは
あっても、結局彼の体に残したのは爪傷ばかりだ。
加害者と被害者という関係が、最も正しかったはずだ。懐かれるような要素を自分は綱吉に与えたわけでもない。
その自覚がヒバリにはある。それなのに。
自分に触れている、不思議なほど不快感を与えない腕を見下ろす。
手に傷はない。しばらく自分がいなかったからだろう。
綱吉の腕に抱え込まれた状態で体を捻ることもできないヒバリは、だから綱吉がどんな表情をしているかまでは確認
できなかった。
それでも自分を包む体温はひどく心地よく、それを払いのけるよりはもっとと望んでしまう。
中毒性のある麻薬のように、一度味わってしまったらもう離すことなど出来ないような。
ヒバリはゆるく目を閉じた。
自分を安心させる体温がこの世にあるなんて、それだけで大発見な気分だ。
一生、そんな感覚を持てることはないと思っていたというのに、この子供はそんな自分の意識を根底から覆す。
弱くて幼くて、優しいだけの小動物なくせに、そういう言葉にしがたい力にだけ、溢れている。
あたかも、どんなものより欲しかったのはこういうものだったのだと、自分に錯覚させるほどには。
すんすん、という綱吉の鼻音にずびずび、と濁音が混じり始める頃になって、ヒバリは自分を抱きしめたままの体温に
向かって低く呻いた。
「ちょっと君、僕の毛で鼻水拭いたりしたら承知しないよ」
「わ、わかってますよ!!うっうっ、ヒバリさんが意地悪だ」
意地悪も何も、優しくしたことなんてあったっけ。
内心首を傾げながらも問いかける。
「夕方に赤ん坊たちが様子を見に来るって言ってたけど。何か欲しいものとかある?」
僕にばかり甘えないで、あの二人にも甘えればいい。
こんな時くらいは、リボーンはともかくディーノなら、自分よりもよほどうまく綱吉を甘やかすだろうから。
そんな思いとともにどこか投げやりに吐き出した問いは、眠りに沈む途中なのだろう、どこか語尾のはっきりしない声
が返された。
「ヒバリさんが帰って来たなら、もうなにも欲しいものはありません」
どこまで本気なのか。
計り知れない言葉を吐いて、その言葉の発生源は眠りに落ちたらしかった。
瞠目する。それから、病人の言うことを真に受けるのが少し馬鹿馬鹿しいような気分になって、ヒバリも目を閉じた。
綱吉の熱はまだ下がらないらしかった。それでも安定した呼吸に少し安心して、ヒバリの意識も眠りに沈む。





「綱吉くーん」
ピンポーン、という軽やかな呼び鈴とともに、そんな声が聞こえてきたのは、次の日の夕方過ぎだ。
見舞いに行くとメールしてきた獄寺と山本には、試験前に2人に風邪をにうつしたら悪いからと、訪問を遠慮してもらっ
ていた。
ディーノとリボーンは午前中に差し入れをもってやってきたから、同じ日に何度も来ることもないはずだ。
そもそも声が違う。どこかで聞いた声だとは思うが、それでも、自分のことを、綱吉君、と呼ぶ人間が思い当たらな
い。
かといってそうまで気安く呼ぶからには、それなりに知っている相手のはずなのだろうが。
綱吉ははて、と首を傾げる。
「誰だろ・・・・」
ヒバリは綱吉の寝ているベッドの枕元に体を丸めるようにして目を閉じていたが、綱吉が起き上がる気配を察して片
目だけ開けて見上げてきた。
1日寝たおかげで、だいぶ熱は下がっている。綱吉はとりあえずは不自由のない足取りで、玄関に向かった。
ヒバリはその後をついていく。
「綱吉くーん。いませんかー?」
声は陽気に、呼びかけを続けていた。
「・・・・どなたですか?!」
「僕です。六道骸です。今日学校で配られたプリントを持ってきましたよ」
開けてくださーい、とやはり奇妙なほどに声は明るい。
「ろくどう、むくろ・・・・?」
首を傾げる。そういえばそんな名前を聞いたことがあるような気がする。
それもごく最近にだ。あまりよろしくない記憶力を総動員して脳内検索を行いつつ。
とりあえずは知り合いだろうし、とかちゃりとドアを開ける。
そこにいたのは。
「・・・・なんで、」
綱吉はパジャマのまま呆然と呟いた。
オッドアイ。綺麗な顔。少年。
かちりかちりと、記憶が組合されていく。この顔は覚えている、黒曜町に迷い込んだときに出会った。というよりは、一
方的に絡まれた。
なにがなんだか、最終的には見逃してくれはしたが、そういえば、会いに行きますって言ってたっけ、と思い出す。
転校して来いとかいっていた気もするが、気に入れらたというよりは、カモとして認識された、というような一件だった
はずだ。
ふるりと震えて戦慄する綱吉を置いてけぼりに、骸はてへ、とその整った顔に茶目っけを覗かせて微笑んだ。
「君が来るのを待ちきれなくてですね、僕が転校しちゃいました。君の学校に」
「ええええ?!マジでー?!つか、なんでー?!」
綱吉驚愕。
試験前に転校って、普通ありえないだろ!!何でこの人、そこまでしてオレと同じ学校に通いたいのー?!
どうして!?つか、なんで!?
パニックに陥る綱吉を他所に、なにコレ、とばかりに黒猫は敵意を顕に、クフーと妙な笑い声を上げる少年を睨んでい
る。
骸は綱吉に好青年の笑顔で、にっこりと笑いかけた。
「立ち話もなんですから、お茶をいただいていいですか?」
言葉使いは丁寧だが、何気に図々しく、お茶なんぞを要求しながら部屋を覗き込もうとする。
その骸に慌てて綱吉は言いかけた。
「あ、ええと、オレ、今風邪引いてて、試験前にうつすわけにはいかないから、」
また今度にしてくれよ、と言おうとした綱吉に言葉を遮って骸が声を上げる。
「風邪ですか?!ではさぞかし不自由をしているのでは?!綱吉君は寝ていてください、僕がおかゆでも作りましょう
か!!」
言いながら、いつの間にか靴を脱いだ片足は玄関から踏み込んできている。
な、なにこの人!!やっぱりなんかヤバいよ!!
ひいぃぃ、と内心悲鳴を上げる綱吉が体を盾にして、骸を何とか押し出そうとする。
「いやいやいや!!間に合ってますから!!うつしたらオレ責任取れませんし!!」
綱吉の言った責任とは、もちろん試験云々のことだ。が。
骸は故意にかマジボケでか、違う意味に取ったようではあった。
「君に責任など取らせません!!むしろ僕にとらせてください!!というか、もうこのまま一緒に暮らしませんか!!」
「どうしてそうなるんだよ!!」
肩をがっしり掴まれて言われ、悲鳴を上げる。
この人、何言っちゃってんの?!人の話が通じねえぇぇー!!
骸の瞳は真摯だ。それだけにどういうツッコミなら、彼を退けられるのかがわからない。
困り果てた綱吉の背に、彼の後ろから跳躍した黒猫が飛びつく。
ヒバリさん、とその存在を思い出して呟く綱吉を無視して、ヒバリは肩に乗る骸の手をぱしん、と叩き落とした。
済ました顔でその肩を陣取る。尻尾をピンと伸ばして、金の視線で骸を射抜いていた。
「・・・・」
骸は不愉快そうに眉をひそめ、猫に視線を止めたようだった。が、次の瞬間。
「可愛い猫ですね!!綱吉君のペットですか?」
うわ!!さらっと地雷踏んだよ、この人!!猫って言っちゃ駄目なのに!!どこからどう見ても猫だけど!!
骸は猫を覗き込むように顔を近づけて、視線を交わしている。それが睨みあっているように見えるのって気のせいか。
骸がヒバリに手を伸ばす。綱吉が制止するよりも早いヒバリの爪先を、素早くかわした骸は、隙なくヒバリを警戒しな
がら笑いかけた。
「おやおや。なかなか凶暴な猫だ」
挑発するように、低い声で、笑顔は笑顔であるというのに、ひどく体温が抜け落ちた。
ヒバリは視線だけで骸を威嚇している。猫のようにフーッと音を立てることだけはないものの、触れている綱吉には彼
が毛を逆立てているのがわかっていた。空気がぴりぴりと肌を刺激する。
綱吉はその気配を知っていた。殺気、というのだ。ヒバリと関わるようになって、実際にそんなものがあるのだと認識
した程度には、それまでの人生では全く縁のなかったものではあったが。
オッドアイを細めて、独り言のように骸が呟いた。
「僕は君のことを知っているかもしれません」
「知り合い?!ヒバリさんの?!」
それを聞きとがめた綱吉が、驚いて声を上げる。
「ヒバリ、というのですか。そうですか。ところで、おかゆの味付けですが綱吉君の好みは?」
綱吉の質問に答えることはせずに、それでも綱吉に視線を向けた骸はもうすでににこやかさわやかな笑顔で、先ほど
までの不穏な空気など嘘のように、優しげに問いかけてきた。
いやオマエ、もうおかゆ作くんの決定事項なのかよ!!頼んでないし!!
顔を引きつらせる綱吉である。
最近オレの周り、人の話を聞かない人多いよな。
なんでだ、と疑問を持ちつつも、とりあえずは骸の入室を阻止しなくてはと口を開く。
知り合いかどうかはともかくとして、骸がヒバリと相性が最悪なのはこの様子では間違いはない。
部屋で乱闘でもされたら、綱吉の安息はない。絶対に確保できない。
「あ、あの!!オレ、今日はもう寝たいんで帰ってもらえますか。明日は学校に行きますんで」
これを聞き入れてもらえなかったら命に関わる、くらいの覚悟で言った綱吉の言葉は、だからというわけでもないだろ
うが骸の脳内にようやく、消極的な拒否と認識してもらえたようだった。
少しだけ残念そうな表情を覗かせて、骸が頷く。
「・・・・そうですか。では綱吉君、今日のところは帰ります。また学校で」
「は、はあ。じゃまた。あ、プリント、ありがとうございました」
「いえ。君のためならどんなことでも」
この人、マジでどこまで本気なんだろう。
そう本気で思わざるをえないようなセリフをさらりと口にして、骸は閉じられていくドアのむこうで手を振っていた。
明日学校に行けば、コレがいるのか。
これ以上面倒ごとは勘弁して欲しいという心境の綱吉は、それを想像してがっくりと項垂れた。





ヒバリの殺気は、当人がいなくなったことなどでは収まらないらしかった。
ドアにチェーンロックまでかけて、再びベッドに沈む綱吉はまだ暖かいブランケットにもぐりこんだ。
「ちょっと」
ヒバリはそれを一蹴りする。
「いたっ!!なにするんですか、ヒバリさん!!」
自分の体温の残るブランケットに目を閉じた瞬間の一撃に、綱吉は軽く目の前に星を散らせながらブランケットの隙
間から顔を出した。涙目だ。
ああこの目。好みだな。などとサディスティックなことを考えながらも、ヒバリは気になることを優先させて問いかける。
「君、あれとどこで知り合ったの。あんなの相手になにへらへら笑ってんの」
「いや別にへらへら笑っては・・・・、て、ヒバリさん、知り合いなんですか?」
「知らない。でも気に食わない。・・・・明日僕の学校で見かけたら咬み殺す」
ふん、と鼻を鳴らすヒバリは相変わらず殺気を振りまいている。
さらにその量が増したようにさえ感じられて、綱吉は嫌な予感にぶるりと体を震わせた。
また平穏な学校生活は綱吉の手の届くところから遠ざかっていくらしい。呟く。
「そんな物騒な」
「もしあの変態を家に入れれば、咬み殺す」
決然と宣言されて、綱吉は聞いてみた。
「猫って言われたから怒ってるんですか?」
「違う」
即答だ。
ヒバリがそういうのだから、理由はそれではないのだろう。
そうですか、と呟いて、それからもうひとつ聞いてみる。
「・・・・だけど、猫じゃないって、だとしたらヒバリさんってなんなんですか・・・・?」
猫だと言うと、猫ではないとこの猫は返す。
そうでなくとも、人の言葉を話す猫など普通いない。
でもそうだとすると、彼は何だと言うのだろう。
こんなときに聞くことでもないなと、頭の隅で思う。ゆっくりと薬の効果が切れてきたらしい。
頭の芯が熱で侵されていく。冷静に会話できる状態ではない。
それでも、今でないといけないのかもしれないとも思う。
なぜだか真面目に面と向かって聞くには抵抗があるような気がしていた。
今なら全て熱のせいと言い訳がきく。ヒバリも熱のせいだとそう思ってくれるかもしれない。
ヒバリが答えてくれるのであっても、そうでなくても、聞いて見たいと思ったのが今なのだから、言葉は止めようもなか
った。
ヒバリは少しだけ沈黙した。
じっ、と真意を伺うように、綱吉の瞳を見つめてくる。
響いた声は凛としていた。
「・・・・なんだっていいじゃない。さっさと寝なよ。熱、ひどくなっても知らないよ」
凛としていた。
だが冷たい響きではなかった。拒絶する響きでもなかった。
それに甘えるように、綱吉は別の質問を唇に登らせようとする。
「ヒバリさんは、」
本当に大切なものがないんですか。
そう、綱吉は聞こうとした。
ヒバリが失踪していた間、その喪失感に打ちひしがれながら、何度も綱吉が考えたことだ。
綱吉自身で言うなら、大切なものは数え切れないほどある。
重要度や優先度を無視するならば、どれか一つを選ぶことはできないし、くだらない日常の全てがそれなりにひどく
大切だった。
それをヒバリに向けて問いかけるのは躊躇われた。
ヒバリと綱吉は、とても同じ感覚ではいないであろうとわかるからだ。
気高い孤高の王者と、プライドを高く保てるほどには強くもなく、それでも人が好きで、群れていなければ心細い草食
動物の自分とではあまりに隔たりがありすぎる。
それでも知りたい。
理解できるのでなくても、同じ気持ちを共感できないとわかっていても、ただ知りたいと思う。
猫の目は真っ直ぐだ。金色に澄んだ煌く瞳だ。
それを少し見つめて、逡巡した言葉を、結局綱吉は飲み込んだ。
代わりのように問いかける。
「その、えーっと、・・・・今が、楽しいですか?」
大切なものがなにか、ヒバリの日常にありはしないのだろうか。
それともそんなものにヒバリは価値を見出さないのだろうか。
それもヒバリらしいとは思う。理解はできなくとも。
ヒバリは少しだけ眉をひそめた。意図を受け止めかねたのだろう。
それから、言ってくる。
「君はどうなの」
「オレは楽しいです。けど、楽しいばっかりだと、楽しいことに疲れません?だからたまには退屈もいいかなって思い
ます」
ゆっくりと言葉を選ぶようにして綱吉は答えた。
どうでもよさそうにヒバリが頷く。
「ふうん」
それが拗ねた子供のような声に聞こえて、綱吉は、ふ、と息をもらすようにして笑んで見せた。
体の力を抜いて目を閉じる。
熱が頭だけでなく体の芯を焼き始めた。意識を保とうとする努力をゆっくりと放棄していく。
だというのに、ヒバリは綱吉を見つめ続ける。
閉じた目蓋の表に、視線の熱をひりひり感じて、うまく意識を落としていけない。
綱吉は薄く目を開いた。その瞬間を狙ったように、ヒバリの声がする。
「草食動物」
「え?」
きょと、と綱吉は目を見開いた。
「だって君に、牙はないだろう」
当然のように言われて、綱吉はヒバリを見た。ヒバリの瞳は真っ直ぐに綱吉を捕らえている。
それを見つめて、少し考える。考えてから、綱吉は困ったような顔をした。
「ヒバリさんだって、・・・・プリンとか食べたりするくせに」
それでもヒバリには牙があることを綱吉はわかっていたし、綱吉にだって全く牙がないわけじゃなかった。
ヒバリだって、それを分かっているだろうと思えた。
ヒバリは何も言わない。
綱吉は、ふ、と笑った。気の抜けたような笑顔だ。
ヒバリはそれを少しの間見つめて、それから熱が上がってきたのだろう、血管の色を透かし始めた綱吉の頬をぺろり
と舐めた。
「ねえ、退屈ってこういうときのこと?」
うーん、と綱吉は首を捻る。
「そうですねえ。でも、退屈でも何でも、ヒバリさんとこんなふうにくだらないこと話したりする時間とか、オレはすごく好
きなんです」
「でもそれは退屈で、くだらないこと、なんだろう?」
「でもそういうくだらないことって実はすげー楽しかったり、しません?」
そんなものにどれほどの意味があるのかと、金色の瞳が問う。
意味は大してないのかもしれない、それでもそこになにか、あるのかもしれない。
この少年といるとそんな気分にもなれるから不思議だ。
自分が自分である限り、一生手に入れられないと思っていたものが、望むことすらないだろうと、諦める意味ではなく
思っていたものが、不意にぽたりと、無造作に手のひらに零れ落ちてくるような。
「綱吉がそれが楽しいならそれでいいよ」
「ヒバリさんは楽しくないですか?」
「さあ」
ヒバリは少しだけ笑った、猫の顔の表情はわかりにくい。それでも笑った気がした。
「でも多分、そんなに悪くはないよ」
「多分、ですか」
「そう、多分ね」
「どこに行ってたのか、聞いてもいいですか・・・・?」
「それはダメ」
ちぇ。
綱吉は小さく舌打ちした。
それでも、ヒバリがここにいるなら、それでもうなんでもいい気がした。





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