隣町ボーイズが来襲したのは、沢田綱吉を応接室で殴ってから一週間後の出来事だった。
とにかくムカつくパイナップルを咬み殺した記憶まではあるが、そこから先は覚えがない。
目覚めたら病院のベッドの上だった。
戦力にはどうせならないだろうから気にも留めなかったが、あの時沢田綱吉がいたなとふと思い出す。
どうにも彼は、さほど荒っぽいことにかかわりのあるタイプには見えないのに、騒ぎの渦中に存在することが多いよう
に思う。
やはり何かが彼を中心に回っているのだ。だとしても興味があるわけでもないが。
そんなことを思いながら、わずかに起き上がり病室を見渡そうとして、身体に走った痛み以外の要素で雲雀は目を見
開いた。
当の沢田綱吉本人が視界に入ったからだ。
クローズユアアイズ
目に入った泣き顔に、雲雀は盛大に顔を顰めた。
なにを泣いているのだろうと、まず思う。
その理由にはいくつか見当がついたが、泣くというのは結局、弱者の発想でそのための行為でしかない。
その認識を雲雀は捨てる気はなかった。改める気もない。
どうにもならないことに泣くのは初めから馬鹿げているし、多少歪ませるくらいでどうにかなることならば、捻じ曲げて
でも何とかしてしまえばいいのだ。
それができないから弱者は泣く。
何もできないのだと、その自分の無力さを、たったそれだけのことでやり過ごそうとする。
だからその涙は意味も重みもなく、ただ流されるだけの綺麗事に過ぎない。
そう思っていたから綱吉の涙は、だから雲雀にはひどく新鮮なものに映った。
意志を宿した涙のように感じられたからだ。
何もできない自分を嘆いていることに変りはなくても、綱吉は自分の意志でそれに逆らいはしないのだと窺い知れた
からだ。
無力な自分を認めて飲み込めるだけの度量をもっていると判断できるそれは、確実に綱吉の強さに繋がるのだと想
像できる。
そしてもし本当にそうであるとするならば、彼はただの草食動物といえるのだろうか。
そんな以前の自分の認識を覆すような発想が、小さな棘のように、それでも容易に忘れ去れないほどには深く胸を突
き刺して、雲雀はどこか心の柔らかい部分がその痛みを知覚してしまう前にと、慌てるようにして声をかけた。
「沢田綱吉」
彼は少し俯いた姿勢のまま顔を上げない。
「・・・・?」
その顔を覗き込むようにして、雲雀はまた一瞬だけ瞳を見開き、それから軽く息をついた。
ベッドサイドの椅子に腰掛けた綱吉は、いつからそこにいるのか泣きながら半分眠ってしまっているらしい。
それに気づいたことで少しだけ安心している自分に気づきながら、雲雀はさらに部屋を見渡す。
いつもなら綱吉と一緒にいる極寺も山本もリボーンもいないらしい。
前者二人がいないことはもちろん気配で分かっていたが、後者くらいはもしかしたらと思ったのだ。
いたからどうというわけではないが、少なくとも今この草食動物と二人で会話をしろといわれるよりは、救われる気が
雲雀にはしていた。
あの騒がしい前者二人でさえ、いれば適当に綱吉をここから連れて出すくらいのことはするだろうし、自分が例えば
冷たい態度をとったとしても、不必要なくらいには甘く慰めるだろうことが予想できるから、そういう意味では安心でき るというのに。
雲雀は溜息を落として、改めてもう一度綱吉を観察した。
何故彼がここにいるのかというのはそれなりに想像がつく。おそらくは、あのメンバーの中で最も負傷の酷かったので
あろう自分についていたのではないだろう。
だが、どうせ綱吉が泣いたところで怪我が治るわけではないのだし、それに綱吉だって、あの状況下でならそれなり
に怪我をしているのではないだろうか。雲雀ほどではないにしてもだ。
そこまで考えて、雲雀はもう一つ溜息をついた。
相変わらず理解できない。
目を覚まさせる意図を持って、雲雀はゆっくりと手を伸ばすと、綱吉のその濡れた頬に指先で触れる。
少し手を動かしただけでも、体に走った激痛はこの際無視しておく。
眠りは浅かったのだろう、軽く触れただけで綱吉はぱちりと大きな瞳を見開き、それから雲雀を認めて、慌てたよう
に、それでも嬉しそうに言った。
「あ!気がつきましたかヒバリさん!どこか痛いとかないですか?!気分が悪いとかは?!」
顔を上げた途端ぱらぱらと涙の粒が頬から滑り落ちるのに、ゴシゴシと赤くなった目元を袖で拭く綱吉を見ながら、質
問には答えずに、雲雀は低く問いかけた。
「・・・・なんで君がここにいるの」
「だってヒバリさん、すごく怪我が酷くて、もう3日も起きなかったんですよ。オレ、心配で」
「迷惑」
雲雀は一言で言い切って、不機嫌そうに溜息をついた。綱吉は少しだけ傷ついた顔をする。
別に頼んだわけでもないのだし、君は君の自己満足を満たすために、僕の傍にいたんだろう、と雲雀は思う。
綱吉の涙だってそうだ。
綱吉だってどこか怪我をしているのだろうに、多分、雲雀の怪我さえ自分のせいだとか。
綱吉はいつだって他人優先だ。それがいつも綱吉のそばで群れている数人のことならまだ分かるが、何故怪我が一
番酷かったからというそれだけで、もっとも接点がなく、怖れていたはずの雲雀の心配をするのか。
何度も殴ったことはあるし、そのときに雲雀が綱吉を心配したかといえば、そうではないと言うのに。
もっとも、気にだけはしていたが、綱吉にはっきりとわかるようにあからさまな心配はしていないというのに。
不機嫌な表情のまま黙り込んだ雲雀を伺うようにしながら、綱吉は言いかけた。
「そうですよね、すみません。でも、オレが勝手に心配だっただけですから。あ、喉渇いてないですか?!スポーツ飲
料ありますけど」
「・・・・」
答えずに、ただ視線だけをよこす雲雀に綱吉は怯えたように肩を竦ませて、それから病室の外を指差す。
体を動かすたびに痛みに耐えるような表情をする綱吉を、雲雀は気遣うでもなく、ただ見ていた。指差すほうにも視線
をやる。
ガラス張りのそこには鳥かごが一つ置かれていた。中には黄色い綿毛のような小さな鳥が、小さく首をかしげるよう
な仕草をしている。
「それと、あの鳥。よほどヒバリさんに懐いてるんだと思います。ここに運び込まれたときに付いて来ちゃって。ヒバリ
さん絶対安静だから、今は部屋の外に出してますけど」
「そう」
雲雀は吐息を吐き出すように一つ頷いた。思う以上に声が掠れていると、そのとき不意に気づく。
常に強者であろうとする雲雀は、弱っている自分を見られるのは苦手だ。慣れてもいない。
何とはなしに気まずくて、眉を寄せた不機嫌さを残したまま、困ったような表情になる。
それに気づいた様子もない綱吉は、それでも掠れた雲雀の声には気づいたのだろう。
ベッドサイドに置かれていたスポーツドリンクのペットボトルをついでのように指先で示す。
「飲みません?!」
「・・・・もらうよ」
雲雀がそう答えた途端、何が嬉しいのか笑顔を見せた綱吉が、紙コップに注いでくれた液体を受け取って、一口含ん
だところで、ふと、視線が絡んだ。
知らず視線がきつくなっていたのか、綱吉は怯えたように少しだけ体を引く。
そのまま静かに視線を合わせ続けててみる。
そうすることで何が分かるわけでもなかったが。
雲雀はゆっくりと、自分が彼に向ける認識を改めて見下ろしてみた。
草食動物。小さくて弱くて、その代わりというわけでもないだろうが、穏やかで優しい。そしてほんの時々、その綱吉
を雲雀は、もしかすると自分よりはるかに強いと感じる。その正体はなんだというのだろう。
「・・・・っ、ヒバリさん?」
絡んだままの視線に、呻くように名を呼んでくる綱吉の、その瞳には確かな怯えが見てとれるのに、彼は逃げるわけ
でもなければ、その瞳も閉ざされるわけでもない。
わからないと、雲雀は思う。沢田綱吉という人間は雲雀にとって全く理解不能だ。
体調さえ万全なら咬み殺すに越したことはないのだろうが、もうそれはどんな意味合いからでもできはしないと、雲雀
には分かり始めていた。
そう考えてしまってから、綱吉がどうこうという以前に、雲雀がもし本当に彼に対して凶暴な行動を起こすようなことが
あれば、あの家庭教師やら綱吉の群れの構成員が黙っていないはずもないから、どのみち綱吉に危害を加えること はできないだろうとも考え直す。
面白くないことには変りない。
そう思うと、急速にそれら全てに興味が失われて、雲雀はふん、と鼻を鳴らした。
びくりと肩を震わせた綱吉から、雲雀は視線を逸らすようにする。
その頬が未だに濡れていることも、面白くない要素の一つだ。
「その顔、何とかしたら。だいたいなんで泣いてるの」
「ヒバリさん、酷い怪我だったし、もし起きなかったらどうしようって思っちゃって。すみませんっ。そんなことないってわ
かってるんですけど、つい」
涙の後を袖で何度か拭うようにしながらも、やはり彼も傷を負っているのだろう、うまく腕を動かせず、きちんと拭えて
もいない。だからその頬は未だわずかに濡れたままだ。
雲雀は目を伏せてあえてそれを視界に入れまいとした。
綱吉の涙に意味があるからといって、それはもう雲雀の中ではどうでもいいことだ。
通り過ぎたものにそれほどの興味は持たない。全ては留まることなく流れていくのだ。
だから雲雀は気まぐれで、移り気にしかなれない。
何かに執着を持つことはしないから、どんな全ても心を深く掠めない。
「ねえ。いつまでそこにいるつもり?もう行ったら。別に僕に用があるわけじゃないだろう」
僕もないしね、と付け加えて、それきり雲雀は綱吉に対する関心を失った。
「用なら、あります」
「ならさっさと言うんだね。僕は気の長いほうじゃない。知ってると思うけど」
わずかに鋭く視線を動かして雲雀が言うと、綱吉はびくりと身体を震わせながらも、それでもというように言ってくる。
「あ、あの、ありがとうございました。怪我いっぱいさせちゃって、」
「・・・・なんのことだい?」
とぼけたわけでもない、綱吉に礼を言われる理由が思い浮かばずに、雲雀はそう聞き返した。
綱吉は大きな瞳をわずかばかり翳らせて、どこか必死な様子で言ってくる。
「だってあいつらの目的は最初からオレで、オレがそれに気づかなかったから、他の人が襲われて、ヒバリさんも」
綱吉の言葉はまだ続くようだったが。
別に綱吉を助けようという意図があったわけでもない雲雀は、どうでもよくなって、うんざりと溜息をついた。
溜息に綱吉が身体を竦ませたのは無視する。
「ねえ。別に僕は君のために戦いに参加したわけじゃないんだし、僕には僕の事情があった。それが、結果君を助け
ることになったからって、それは全く関係がないんだ。怪我をしたことだって君には関係がない。そこで泣かれても邪 魔だから群れにでも帰ったら」
綱吉の視線が、雲雀の大げさに巻かれた包帯を掠めた。それからわずかに逡巡するように視線をさまよわせて、綱
吉は小さく頷いて椅子から立ち上がった。
「・・・・でも、それでも、ありがとうございました。怪我、お大事に」
そういってから背を向ける。
立ち上がるのも歩くときも、目立った場所に包帯などは巻いていないというのに、綱吉の動作はひどくゆっくりで、そ
れでもそれを雲雀に悟らせないためにか、わずかに顔をこわばらせながらも平常を装って離れていこうとするその小さ な背中を、雲雀は黙って見つめていた。
つまらないし、どうでもいい。
そう思う気持ちに反して、綱吉が背を向けてしまった途端、雲雀はなぜか綱吉から視線を逸らすことができなくなっ
た。
理由など分からない。
綱吉の足が後数歩でドアにたどり着く、その時に綱吉がふらついた、それが切っ掛けであったように。
雲雀の意地を無視して声が滑り出る。
「・・・・待ちなよ」
なぜ、呼び止めてしまったのか。それは多分未来永劫答えを示せないだろう自問だと、雲雀は自覚していた。
君が子供のように泣くから、僕は何かを後悔した。
何かは分からないがそれは何か重大な過失だ。
弱い草食動物。他のその他大勢と何が変わるわけでもない。それに違いはないと思うのに。
綱吉はどういうわけか、わけののわからない感情を連れてくる天才のようだった。
綱吉本人が雲雀にとってはわけの分からない存在だからかもしれない。
雲雀は何かに誘われるようにゆっくりと手を伸ばす。
何事かと、やはりゆっくりとした動作で雲雀の傍に戻ってきた綱吉の、涙に濡れる頬に触れた。そこは不思議なほど
熱を孕んでいる。
おそらく自分には理解できない熱さだと、雲雀は思った。
それでも綱吉の頬に残る涙が、それがどんな形であれ自分のために流された自分のものなのだと思うだけで、一粒
一粒が突然に重く意味がありすぎるものに思えた。
「ヒバリさん?」
綱吉が雲雀の名を呟く。
殴られるとでも思っていたのだろう。雲雀が触れた瞬間、綱吉は目を硬くつぶって体を強張らせていたが。
触れたその指先が頬を撫でるようにするのに、驚いて大きな目をさらに見開いて、困っているようにも見える綱吉のそ
の表情に雲雀は居心地悪く身じろいだ。
呻くように呟く。
それは自分以外の他者など認めたことのない雲雀にとっては、降伏宣言のようなものだったかもしれなかった。
「君に泣かれると、風紀が乱れるんだ」
言い訳のように、こじつけのように。
呟いて雲雀は、驚いたように目を見開いたまま固まっている綱吉を少し見つめて、それからいってしまった言葉を後
悔すると言うわけでもなく目を伏せた。
苦いものが胸を満たしていたが、それが伴うものは苦痛だけではなく。
「ここ、学校じゃありませんよ」
真に受けたらしい綱吉が不思議そうに問い返してくる。
学校でなければ学校の風紀は問題ないだろうといいたいらしかったが、雲雀はなおも、眉を寄せて不本意そうに呟い
た。
「それでもだよ。僕が乱れるといったら乱れるんだ」
泣かないで欲しいなんていえるわけがない雲雀は、それでもわけの分からない理屈を振りかざしているという自覚く
らいはさすがにある。知らず頬が熱くなった。
目を見開いて見上げる綱吉が直結するその真意にたどり着いていないことを救いのように思いながらも、雲雀は緩く
息を吐き出して目を伏せた。
伏せた目蓋のその向こうで、綱吉が困り果てた表情をしていることは知っていたが、それをどうすることもできずに。
だからさっさと泣きやみなよ、と密やかな声で言いかけた。
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